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田村耕一【人間国宝/鉄絵】

田村耕一(たむらこういち)

 

栃木県佐野市生まれの田村耕一は

 

東京美術学校工芸家を卒業すると

 

28歳から京都において

 

輸出の為の陶磁器のデザインを手がけます。

 

この間に田村は富本憲吉に師事し

 

陶磁器への考えや工芸観を改め

 

その約2年後には故郷で赤見窯を創り出しました。

 

作陶生活に入った田村は、薪窯や登り窯を構え

 

鉄絵において独自の技法を用いて

 

様々な作品を生み出します。

 

その後は栃木県芸術祭での芸術祭賞受賞や

 

栃木県窯業指導所の技官などにも従事したのち

 

35歳からは自宅で製陶活動に没頭しました。

 

富本憲吉に直接指導を仰いだその経験は

 

田村耕一のその後の製陶活動に

 

多大な影響を及ぼしています。

 

そのため田村は世に出て活躍した後も

 

富本を変わらず師と仰ぎ続けました。

 

やがて日本陶磁協会賞や

 

イスタンブールで開催された国際陶芸展でも

 

グランプリ金賞を受賞し、これらの功績が評価され

 

田村は65歳の時に紫綬褒章を受章しています。

 

また、その3年後には

 

重要無形文化財保持者に認定されました。

 

 

 

【田村耕一の作品の特徴と技法】

 

田村耕一の作品の特徴である鉄絵とは

 

酸化鉄を用いて文様を表現する加飾技法です。

 

着色させる鉄分の含有量や

 

焼成する際の焔の性質によって

 

黄褐色や茶褐色、黒色など

 

その発色は様々に変化します。

 

田村耕一の初期の作品は

 

黄褐色や黒色の2種類の鉄釉が多く用いられました。

 

さらに筒描、蝋抜きによる草花文様の作品も

 

好評を得ています。

 

その後も豪質な筆使いの刷毛目を用いて鉄絵を描き

 

銅彩を織り交ぜ多彩な文様を生み出しました。

 

また、青磁釉を使って文様に深みを加えるなど

 

鉄絵をベースにしながら、様々な技法を用いて

 

多彩で独特な表現方法を編み出していき、

 

陶芸における芸術性を高めています。

 

田村は伝統的な技法も大切にしながら

 

独自の技術も使って自身の世界を築き上げていき

 

揺るぎない地位を手にしました。

 

 

 

【田村耕一の評価される所以】

 

田村耕一の作品は、伝統的な技法を使いながらも

 

独自の新しい表現方法を

 

作品に投影していったことが高く評価されています。

 

特に、後期の田村耕一の作品は

 

白泥や青磁の上に絵付けする技法などを用いて

 

美しく華麗な作品を生み出しました。

 

椿やぶどうなど、日々の生活の中にある

 

身近かな題材を軽快に描き

 

庶民にも愛される作品を作り続けています。

 

また、その鉄絵は一貫して創作活動の中心となっており

 

そのほか鉄釉、辰砂釉など青磁釉も多く扱いながらも

 

様々な作品の中心には常に鉄絵に重きが置かれていました。

 

その絵付けは国内海外に限らず、高い評価を得ています。

 

 

 

金森映井智【人間国宝/彫金】

金森映井智(かなもりえいいち)

 

金森映井智は19082月に

 

富山県の高岡市にて生まれました。

 

高岡市は加賀藩の2代目藩主であった

 

前田利長によって鋳物産業が盛んとなった場所で

 

金森映井智自身も幼少期から

 

鋳物に興味を持っていたといいます。

 

そしてまもなく、彫金職人であり

 

第十二回帝国美術院展覧会への入選や、

 

ベルギー万国博覧会の名誉大賞の受賞を果たした

 

内島市平と出会った事で

 

彫金職人になる考えとなりました。

 

金森は高校卒業と同時に内島市平自身から

 

彫金や鋳金、板金や鍛金と言った技術を

 

本格的に学びんでいきます。

 

そして2年後に独立を果たし、1930年に

 

商工省第17回工芸展覧会に初入選及び褒状を受賞。

 

1989年には人間国宝となり

 

12年後の200111月に息を引き取りました。

 

 

 

作風

 

金森映井智の作品の特徴は

 

まず高岡銅器(鋳物)の影響を

 

色濃く受けている所だと言われています。

 

高岡銅器自体が、そもそも1611年に

 

前田利長が高岡市に7人の鋳物師を呼んだことが

 

きっかけで始まり、以後現代においても

 

日本全国で使われる銅器のほとんどが

 

高岡市で作られています。

 

その高岡銅器は仏具や花瓶、茶道具や装飾金具など

 

ありとあらゆる所に影響を与え

 

確固たる美しい造形美は世界中で称賛されると同時に

 

金森映井智にも大きな影響を与えました。

 

金森映井智の作品には、鋳銅などの素地に

 

金や銀の線象嵌や布目象嵌が施されています。

 

また四条派の日本画家である中島秋圃からも

 

教えを受けていた影響もあり、草花の模様が

 

作品内に施してあるのも特徴のひとつです。

 

 

 

作品の背景

 

高岡銅器について

 

高岡銅器は鋳造と研磨、彫金と象嵌から

 

作品が作られていきます。

 

分業がされていますが、どの工程も

 

卓越した技術を持った職人によって作られています。

 

なお前述の通り高岡市は

 

日本で一番のシェアを誇る銅器生産地であり

 

像から茶器まで大小様々な道具が作られています。

 

四条派について

 

円山四条派とも呼びます。

 

18世紀中盤の京都を中心にして

 

自由な作風を求める動きが活発になりました。

 

円山四条派はその中でも

 

あくまで写実的である立場を取る、

 

と言う考えに至っています。

 

金森映井智はこの門下生でもありました。

 

 

 

個性と技術を立証した金森映井智

 

金森映井智は、独立してから作家として

 

活動をスタートさせたと言われています。

 

 

高岡銅器は分業制であるため

 

作家として個性を発揮することは難しく

 

内島市平と出会わなければ自身が受けてきた影響を

 

ダイレクトに作品に反映させることは

 

難しかったと考えられます。

 

しかし金森映井智は1962年には

 

日本工芸会の正会員となり、技術の高さから

 

東照宮の立木観音堂天蓋金具の製作を

 

依頼されるほどとなりました。

 

この出来事は

 

金森の個性が認められたと同時に

 

技術の高さが立証されたといえるでしょう。

 

 

 

玉川宣夫【人間国宝/鍛金】

玉川宣夫(たまがわのりお)

 

玉川宣夫は19421月に新潟県下田村で生まれます。

 

やがて13歳になると新潟で現在200年ほどの歴史を持つ

 

玉川堂五代目の玉川覚平の次男として転籍。

 

1959年には玉川堂に入社しました。

 

また21歳の時には

 

打出しや接合せと言った技法が支持されている

 

人間国宝の関谷四郎の内弟子として

 

2年間修業を行います。

 

そして27歳の時に日本伝統工芸展に初入選を果たし

 

201010月、人間国宝として認定されました。

 

ちなみに同じ年の10月には

 

燕市名誉市民の称号も贈呈されています。

 

 

 

支持されている部分とその技法

 

玉川宣夫は、江戸時代中期に

 

仙台の職人が新潟県燕市に伝えたとされている

 

鎚起銅器の技術をベースにした、

 

木目金の技法を使った作品作りが支持されています。

 
鎚起銅器

 

鎚起銅器は燕市にある霊山の

 

弥彦山と瀬銅山から採れる

 

質の高い銅によって作られています。

 

(新潟県自体が銅が採れる山が

 

多い事で知られています。)

 

 

それを仙台の職人が1枚の銅板から

 

継ぎ目無く作り上げる鎚起銅器の技法によって伝え

 

明治維新以降は市全体で生産が特に活発になり

 

代表する伝統工芸品となりました。

 

そして1816年に玉川覚兵衛が

 

鎚起銅器の技法を習得し、玉川堂を設立。

 

ちなみに鎚起銅器は特にやかんが有名ですが

 

他にも鍋や釜なども玉川堂及び燕市で作られています。

 
木目金について

 

木目金とは銀や銅や赤銅など、違う種類の金属板を

 

10枚から30枚分合わせてから

 

金槌で叩き伸ばす技法で、色味の違う

 

木目状の文様が生み出されます。

 

江戸時代初期に生まれた金属加工技術と言われ

 

現在では海外にも知られており

 

MOKUMEGANE」と言われています。

 

他にも木目金は、柔らかくするため

 

熱してから冷やす焼き鈍しや

 

鏨を使った彫金の作業など

 

様々な工程が必要となり、体力が必要と同時に

 

精神力と集中力が強く求められると言われています。

 

しかし玉川宣夫はその苦しさがあると同時に

 

それを超える作品が出来上がっていく様子を

 

楽しんでいる旨の発言をしています。

 
着色

 

他にも玉川堂では溶液に浸す独自の着色を

 

木目金に施すことに成功しています。

 

 

 

地域に感謝している玉川宣夫

 

燕鎚起銅器は熱の伝導が満遍なく伝わる事で

 

やかんや鍋や釜などに使われていますが

 

他にはプレートやワインクーラー用にも

 

作られています。

 

燕鎚起銅器は安価の値段で

 

提供できるものでは無いものの

 

使うほどに光沢や色合いや深みが増していく所に

 

面白さがあると言われています。

 

そして玉川宣夫は201010月に

 

人間国宝として認定されるのを記念して

 

燕市産業史料館で作品展

 

「玉川宣夫 金工展

 

~回帰・薬罐屋(やかんや)の頃~」を開催。

 

玉川宣夫は

 

「燕市が燕鎚起銅器としても

 

産業が盛んであるからこそ、今の私がいる」

 

と言った旨の発言をしており

 

作品展示がその恩返しとなりました。

 

現在でも、玉川宣夫は玉川堂にいる

 

若い職人に技術を伝えています。

 

 

 

音丸耕堂【人間国宝/彫漆】

音丸耕堂(おとまるこうどう)

 

音丸耕堂は18986月に香川県高松市で生まれます。

 

13歳の時に讃岐彫りで有名な

 

石井磬堂の元で修行を積んだ後、

 

大正時代を代表する玉楮象谷からも

 

讃岐彫について教えを受けました。

 

1932年には、第13回帝国美術院展覧会に出品した

 

彫漆双蟹手箱で初入選を得て、以後受賞を重ねると

 

57歳の時に人間国宝として認定されます。

 

石井磬堂譲りの根気のいる作業を

 

徹底して行う作品作りが有名で

 

他に代表作としては彫漆菊水指なども残しました。

 

その他にも、工芸家の地位向上に向け尽力するなど

 

多くの功績も残し

 

1997年、99歳でこの世を去っています。

 

 

 

技法の経歴

 

玉楮象谷の模倣から西洋風の色漆での彫漆

 

音丸耕堂の初期の頃の作品としては

 

堆黒や堆朱、紅花緑葉と言った

 

古くからある色漆を活かした彫漆と

 

また緑漆と黒漆のコントラストを

 

全面に表現したテイストが特徴的です。

 

これらは氏の作品としては

 

大正期から昭和初期から見られるもので

 

香川漆芸の蒟醤で知られている磯井如真や

 

新工芸研究会无型の活躍で知られている北原千鹿。

 

斬新な彫刻作品で有名な大須賀喬と交流を重ねた事も

 

背景にあるのではとも言われています。

 

音丸耕堂は元々は玉楮象谷の模倣から入り

 

そこから西洋風でもある上の色漆での

 

彫漆へと移っていきました。

 

 

独自の彫漆

 

彫漆では数十回から数百回も漆を塗り重ね

 

その上から文様を刻んでいきます。

 

忍耐力が強く求められる作業と言われており

 

音丸耕堂は石井磬堂から

 

こう言った鍛錬を教えられてきました。

 

音丸耕堂の作品は、1977年辺りから見られる傾向で

 

平行の文様である他、色漆に金銀粉が混ざり

 

彫った際の角度などで、独自性がある

 

といった特徴があります。

 

他にも音丸耕堂は

 

一日一枚は必ずスケッチをしており、

 

スケッチを書かずに下絵は行わない事も語っています。

 

 

 

他の細かい技法の解説

 

彫漆

 

漆を塗り重ねて文様を彫る作業です。

 

朱漆を使う堆朱や、黒漆を使った堆黒などが有名です。

 

中国から広まった技法しても知られています。

 

 

色漆

 

乳白色のネバネバした液体が出る

 

漆の樹から樹液を作り

 

そこに水酸化鉄や顔料を入れます。

 

 

 

後世を支援する音丸耕堂

 

音丸耕堂はこれからの職人の為に1982年、

 

公益信託音丸漆芸研究奨励基金を設立しました。

 

また1988年には

 

音丸耕堂鳩寿記念回顧展が開催されています。

 

石井磬堂や玉楮象谷から教えを受けて

 

自身の基盤となったように、

 

資金と作品などを通して後進の育成に励みました。

 

 

 

塚本快示【人間国宝/白磁・青白磁】

塚本快示(つかもとかいじ)

 

1912年に岐阜県に生まれた塚本快示の生家は

 

製陶を代々営んでいました。

 

幼い頃から製陶を始め

 

その才能が広まり始めたのは50歳の頃です。

 

49歳で通商産業省のGマークに入選したのをきっかけに

 

1963年の日本伝統工芸展に初入選

 

また、その翌年にはカリフォルニア博覧会で

 

金賞を受賞しました。

 

その後も53歳の時には

 

日本伝統工芸展日本工芸会会長賞を受賞し

 

65歳にして紫綬褒章を受章するなど

 

数々の賞を立て続けに受賞しています。

 

海外でも積極的に創作活動を行うなどし

 

71歳の時に白磁と青磁の技術で

 

重要無形文化財保持者に認定され

 

翌年には勲四等旭日賞を受賞しました。

 

その製陶活動は、戦後の美濃窯を大いに発展させた

 

日根野作三に師事したもので

 

中国陶磁、主に北宋時代の

 

青磁、白磁、影青の研究を行いました。

 

 

 

【塚本快示の作品の特徴と技法】

 

塚本快示の作品の種類は多岐に及び、

 

壺、鉢、組器、皿、青白磁器など

 

その作品のいづれも品格のある美しい作品として

 

評価されています。

 

そのデザインの特徴は、シンプルな絵付けで

 

清廉な美しさを醸し出している点です。

 

白磁胎に、乾く前に鋼や竹のヘラで模様をつける

 

片切り模様など、とても難しい技術も駆使して

 

作品を制作していました。

 

そのような技術は塚本快示以外では

 

容易にできる技術ではなく、その高度な技術もまた

 

塚本の独自の美を表現するには

 

必要な技術でもありました。

 

作品のフォルムもとても端正な佇まいをしており

 

優美な曲線で見る者を魅了します。

 

それは、中国北宋の古典的な

 

端正な陶磁器の影響も少なからず受けているから

 

と言え、独自の作風を確立しながらも

 

伝統的な作風にも重きを置く

 

塚本の作品の特徴を表しています。

 

その作品は見ているだけでも美しく

 

美術品としても満足してしまいますが

 

実用的な工芸品としての価値も評価されています。

 

そういったこだわりも塚本快示の作品に対する

 

創作姿勢が窺えます。

 

 

 

【塚本快示の評価される所以】

 

塚本快示が評価される所以は

 

中国北宋の青白磁を長年研究し

 

古典的な技法や技術を会得した上で

 

世に広めた功績が大きく

 

そのほか自身のオリジナルの技法を織り交ぜ

 

その作風を作り上げたことにもよります。

 

もちろん、白磁や青磁の第一人者として

 

その名は認知されており、後に続く作家にも

 

多大な影響を及ぼしています。

 

また、自身の創作活動は国内に留まらず

 

海外にも積極的に活動範囲を拡げています。

 

カリフォルニア博覧会や

 

モントリオールの万博にも出品し

 

その作品は高い評価を得ました。

 

地元の美濃焼の発展に尽力したその姿勢にも

 

塚本快示の製陶に打ち込む精神性が

 

色濃く現れているといえます。

 

 

 

中島宏【人間国宝/青磁】

中島宏(なかしまひろし)

 

1941年に佐賀県に生まれた青磁陶芸家中島宏は

 

製陶所を営む家庭で生まれ育ちました。

 

その環境もあり、中学校を卒業してからは

 

製陶所で働き、窯の世界へ入り

 

その技術を磨いていきます。

 

やがて県展で「変形白磁壺」が評価を受け

 

賞を受賞したことをきっかけに

 

本格的にデビューを果たすと、

 

独立して「弓野窯」を構えて土と釉薬の研究に没頭し、

 

「青磁」の技法を会得しました。

 

その後日本伝統工芸会正会員を経て

 

41歳の時には日本陶磁協会賞を受賞しています。

 

翌年からは中国で宋時代の「青磁」の研究を行い

 

その経験を生かし独自の技法、

 

美を追求していきました。

 

60代半ばの頃には、日本陶磁協会賞の金賞を受賞し

 

2007年、66歳の時に、青磁の技術で

 

重要無形文化財の保持者に認定されています。

 

さらに71歳の時には旭日小綬章を受章し

 

日本工芸会副理事長にも就任するなど

 

晩年まで活躍しました。

 

 

 

【中島宏の作品の特徴と技法】

 

中島宏の作品は

 

青磁と青瓷を使い分けていたと言えるでしょう。

 

青磁は白い磁土を使い、

 

青瓷は鉄分を多く含む陶土を使用する点に

 

違いがあります。

 

中島宏ほど、多彩な土や釉薬を細く使い分け

 

作品を作り上げた作家は多くはいません。

 

その作品の特徴は青磁に見られるようなブルーが

 

とても綺麗な陶器である点がまず挙げられます。

 

穏やかで品格のあるそのブルーは

 

中島宏の真骨頂と言え、その色に辿り着くまでは

 

相当な研究と調査を重ねました。

 

中国の古窯を訪れては、窯跡から

 

陶片を拾い出して丹念に調べたりもしたといいます。

 

 

また、もともと家業が窯だった為に

 

父親から陶器の薫陶を受けることができたのも、

 

中島宏にとっては良い点でした。

 

職人としての心構えも伝授され

 

作品の中に心を込めることを学び

 

実践していきました。

 

青磁を極めることは難しいことですが、

 

あえてその世界に身を投じて自分を律し

 

作品作りにのめり込んでいきました。

 

また、青磁作りの先人たちが

 

築き上げてきた伝統に加えて

 

自分の創造も織り交ぜながら、

 

青磁を昇華させています。

 

 

 

【中島宏の評価される所以】

 

若い頃、中島宏はよく仕事の合間に

 

有田、伊万里、波佐見、武雄などの

 

窯跡や陶片が捨てられている物原などを訪ねて

 

その陶片などを調べてたりしながら

 

作陶技術を磨いていきました。

 

その陶片の中には、美しく光るブルーや緑色の

 

青磁や陶片を見つけ魅了されたことが

 

「中島ブルー」を追究する原点だった

 

と言われています。

 

中島宏が評価される「中島ブルー」は

 

このような体験から生まれています。

 

その美しい深い色合いの「中島ブルー」は

 

空や竹など自然風土に存在するブルーを目指していた

 

と中島宏自身も述べています。

 

その中島宏が作った作品は「中島青磁」と呼ばれ

 

青磁の中でも特別な存在でもありました。

 

青磁を作る陶芸家の第一人者と言っても

 

過言ではないでしょう。

 

 

 

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