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岡田謙三【画家】

1902年に生まれ、昭和末期まで活躍した画家です。

 

画家として活動するようになってからは

 

当初は具象画を描いていたものの

 

渡米をきっかけに抽象画を描くようになりました。

 

日本ならではの幽玄的な感性を取り入れた

 

画風を確立したと共に、その画風を

 

『ユーゲニズム(幽玄主義)』と称し提唱しました。

 

 

 

ここではその岡田謙三の生涯をご紹介していきます。

 

岡田謙三(おかだけんぞう)

 

 

横浜で生まれ育った岡田は、20歳の時に

 

東京美術学校西洋画科に入学しましたが

 

2年後には中退しフランスへ渡りました。

 

パリでは同じく画家の藤田嗣治や

 

海老原喜之助らと親交し

 

同地で当時活躍した作家たちの作品や芸術性に

 

強い感銘を受けたと言われています。

 

 

 

約3年後に日本に帰国した岡田は

 

1929年の二科展で初入選を果たし

 

35歳の時には二科展の会員となりました。

 

その後48歳の時にはアメリカへ渡り

 

当時抽象主義が発展していたニューヨークで

 

制作活動を開始します。

 

この期間に自身の独特の画風となる

 

ユーゲニズムを確立した岡田は、

 

有力な画商であったベティ・パーソンズの画廊で

 

初めての個展の開催を行いました。

 

この個展は大きく成功を治め、アメリカの地で

 

「岡田謙三」の名と「ユーゲニズム」の名を広めた

 

大きなきっかけとなっています。

 

また、アメリカ滞在中には

 

コロンビア絵画ビエンナーレや

 

ユネスコ絵画コンテストなど

 

多くの作品展に作品を出品し

 

優秀な賞を数多く受賞しました。

 

 

 

1960年には岡田はアメリカ市民権も獲得し

 

日本と往復しながら晩年まで

 

制作活動を続けています。

 

 

 

海老原喜之助【画家】

1904年に鹿児島に生まれ

 

1970年代まで洋画家として活躍しました。

 

パリに滞在中に制作した作品から

 

生み出された青色は「エビハラ・ブルー」と称され

 

海老原喜之助作品の大きな特徴となっています。

 

この色合いは製作時期によって異なり

 

明るい南国を思わせる青から

 

冬景色を思わせるような青まで、色調は様々です。

 

また、主題としてよく馬を好み

 

晩年までに馬を題材とした作品を多く描きました。

 

 

 

ここではその海老原喜之助について

 

ご紹介していきます。

 

海老原喜之助(えびはらきのすけ)

 

 

鹿児島で生まれ育った海老原は

 

中学卒業時にはすでに絵画に強い興味を持っており

 

上京するとフランス語を学びながら

 

川端画学校で絵画を学びました。

 

やがて19歳になるとフランス・パリへ渡り

 

現地で藤田嗣治に師事しています。

 

 

 

滞在中にはフランスから

 

日本の二科展に出品した作品が初めて入選

 

またフランスのサロン・ドトンヌでも

 

同じく入選を果たし、23歳の頃には

 

パブロ・ピカソなど多くの著名な画家と親交のあった

 

画商のアンリ・ピエール・ロシェとの

 

契約を果たしました。

 

その後もニューヨークでの個展で成功を治め

 

さらにはフランスでのサロン・ド・レスカリエに

 

招待出品したことで注目を浴びるなど

 

徐々にその名を広めていきます。

 

30歳の頃に日本に帰国してからも制作活動は続け

 

個展の開催、戦争画の制作などを行いながら

 

日本大学芸術学部の講師を

 

兼任するなどして活躍しました。

 

 

 

40代になる頃には熊本県に疎開し

 

終戦を迎えましたが、この期間

 

しばらく制作活動は行っていなかったようです。

 

活動を再開したのは海老原が46歳の頃に

 

開催された南日本文化賞のあたりから

 

とされており、ここでも賞を受賞し、

 

これを皮切りに国内の作品展への出品と

 

制作活動を再開しました。

 

やがてフランスへも断続的に渡るようになり

 

師と仰いだ藤田との親交も

 

本人が亡くなるまで続いています。

 

晩年まで創作活動を続けた海老原は

 

66歳で死去しましたが

 

その功績は子孫にまで伝えられ

 

現在では海老原の孫によって

 

オフィシャルギャラリーが経営されています。

 

 

 

村井正誠【画家】

主に昭和から平成にかけて画家として活躍しました。

 

日本で洋画を学んだ後

 

文化の先駆けともいえるフランスへ渡り新たな刺激を得

 

帰国後はモダンアート協会の創立者となっています。

 

村井正誠の抽象画作品は輪郭が単純化され

 

平面的でありながらも

 

しっかりと彩られた画面が特徴的で

 

独特の雰囲気が感じられます。

 

 

 

ここではその村井正誠の生涯をご紹介します。

 

村井正誠(むらいまさなり)

 

 

村井正誠は明治38年に岐阜県で生まれ

 

医師であった父の転勤に伴い

 

和歌山県で育っています。

 

やがて上京して医学校と美術学校を受験するも

 

両方不合格となってしまい

 

川端画学校に通ったのち

 

文化学院大学部の

 

美術科第一期生として入学しました。

 

学生時代には二科展への出品

 

そして後に、共にモダンアート協会の会員となった

 

矢橋六郎や山口薫と親交を深めます。

 

 

文化学院大学部を23歳で卒業すると

 

村井はそのままフランスへ渡り

 

アンデパンダン展に2回出品しました。

 

このフランス滞在中に抽象絵画に出会い

 

大きな刺激を受けた村井は

 

それまで敬慕していた

 

ルノワールからは時代が進んでいること

 

そしてイタリアや南仏への旅行で触れた

 

エトルスクやビザンチンの原始美術に強い興味を持ち

 

自身の作品にその風潮を活かしていくようになります。

 

 

 

昭和7年に帰国した後は、自身初めての個展や

 

矢橋六郎、山口薫らと共に

 

自由美術家協会を創始するなど

 

フランス滞在中に得た新たな美術潮流を

 

日本で広めていきました。

 

その後は文化学院大学の講師や

 

モダンアート協会の結成

 

武蔵野美術学校の西洋画講師から

 

名誉教授などを務めます。

 

また、その間にも自身の作品の制作活動を進め

 

現代日本美術展での最優秀賞や

 

東京国際版画ビエンナーレの

 

文部大臣賞を受賞しました。

 

 

 

平成11年に亡くなった村井正誠ですが

 

平成に入ってからも世田谷区文化功労者や中村彝賞

 

中日文化賞を受賞し、日本の近代絵画の中でも

 

抽象画を制作した先駆者として

 

高い評価を得ています。

 

 

 

青山義雄【画家】

主に1900年代に画家として活躍しました。

 

幼い頃から文学や絵に強い興味を持ち、

 

両親の反対を押し切り画家となりました。

 

若くしてフランスへ旅立ち絵画を学び

 

優しく鮮やかな色使いで描かれた油彩や水彩の作品は

 

現在でも国内外問わず人気があります。

 

 

ここではその青山義雄の生涯について、ご紹介します。

 

 

青山義雄(あおやまよしお)

 

青山義雄は明治27年に神奈川で生まれました。

 

幼少期は海軍に勤めた父の転勤に伴い

 

三重県や北海道で暮らしますが

 

幼い頃から好んでいた絵を学ぶ為に

 

14歳で学校を退学し画家を目指し始めます。

 

16歳の時には上京して画家の大下藤次郎や

 

永地秀太に師事しました。

 

のちに父の破産の報告を受け帰郷しましたが

 

肖像画を描くなど様々な仕事で溜めた資金で

 

27歳でフランスへ向かいます。

 

 

1920年代前半はパリで過ごし、デッサンを学びながら

 

日本人会の書記を務めるなどして生活しました。

 

フランスで生活を始めた年の秋にはサロン・ドトンヌ

 

という展覧会に自身の作品を2点出品しましたが

 

当時パリには日本人も含め

 

約500人もの画学生がいたといわれる中

 

青山義雄はいきなり入選を果たしたのです。

 

その翌年に出品した作品も入選し

 

青山義雄の名は広まっていきました。

 

その後、画家として創作活動を続ける中で体調を崩し

 

青山は31才で南フランスのカーニュに移住します。

 

南仏の豊かな自然は

 

青山の作品に大きな影響を与えており

 

鮮やかな色使いで描かれた青山の作品が

 

アンリ・マティスの目にとまると

 

『この男は色彩を持っている』と称賛された

 

といわれています。

 

これを機に青山はマティスと交流を深め

 

作品への助言を受けるなどし

 

自身の画法を磨いていきました。

 

やがて35歳の頃からは

 

毎年パリで個展を開くまでとなります。

 

 

41歳の頃には青山は

 

日本に一時帰国をしています。

 

フランスでの精工舎とされ国画会会員にもなりますが

 

再び南フランスへ戻ろうとした時には

 

第二次世界大戦の開戦によりそれが叶わず

 

不景気で作品もなかなか売れない中

 

17年間日本に滞在しました。

 

マティスの助力を得て58歳にして

 

南フランスに帰りましたが

 

数年後にマティスが亡くなってからは

 

スペインやイタリアなども巡り

 

自身の画風を突き詰めていきます。

 

やがて90歳を超えるまで青山は

 

フランスで創作活動を続け

 

昭和61年、日本に帰国しました。

 

 

帰国後も102歳で亡くなるまで

 

南フランスを中心とするヨーロッパで得た

 

明るく鮮やかな画風で

 

作品の制作を続けています。

 

 

 

河井寛次郎【人間国宝/文化勲章 辞退】

河井寛次郎(かわいかんじろう)

 

自身がきちんと納得のいく作品ができるまで

 

個展を開かないなど、強い信念を持って

 

作品を作り続けた河井寛次郎。

 

ここではその半生や作品の特徴を紹介します。

 

 

来歴

 

河井寛次郎は明治238

 

島根県安来市にて生まれました。

 

元々生家は大工を営んでいたのですが

 

寛次朗自身は中学の頃から焼き物の世界に興味を持ち

 

明治43年、東京高等工業学校窯業科に入学します。

 

卒業後は京都市立陶磁器試験場に技師として働き

 

大正9年には陶芸家の5代目清水六兵衛から

 

窯を貰うと同時に、住居も構え独立を果たしました。

 

また翌年には初個展も開き

 

中国・朝鮮の古陶磁の影響を強く受けた作品を発表します。

 

昭和30年には文化勲章を辞退。

 

同時に人間国宝の認定も退き昭和41年にこの世を去りました。

 

 

作品の特徴

 

河井寛次郎の作風は

 

次の3つの時代に大きく分かれると言われています。

 

一つが中国・朝鮮の古陶磁の手法を取り入れた時代です。

 

河井寛次郎自身が研究し、「寛」や「鐘渓窯」の押印。

 

箱には「鐘寛」や「鐘渓窯」と言った文字が

 

記入されているのが特徴です。

 

その次が、実用性は変わらず

 

生命の力強さを描いた作品です。

 

民芸の主唱者と知られている柳宗悦との交流が

 

その時代の作風に影響を与えたのでは、

 

と言われています。

 

もう一つが戦後昭和20年以降の

 

釉薬を使った色鮮やかな作品です。

 

それでいて重厚さもあり、今度は実用性よりも

 

自身の自由な創作性を重視している事で

 

知られています。

 

 

「暮しが仕事、仕事が暮し。」

 

中国・朝鮮の影響を受けた作風時代から

 

既に評判を呼び、

 

「名人芸」とも言われていた河井寛次郎。

 

力強い作品の数々を生み出す氏は

 

「暮しが仕事、仕事が暮し。」

 

と言う言葉を残しています。

 

自分の日常の一部として

 

モノ作りを行っているだけであって

 

何も特別な事ではないと言うのが

 

言葉の真相と言われています。

 

 

実際に重要無形文化財保持者や

 

文化勲章を辞退しているのは

 

そこに理由があるとも考えられ

 

後期の作品には自身の作家銘を入れていません。

 

 

 

なお河井寛次郎は京都にて作品を発表するようになり

 

自宅も建てています。

 

現在は「河井寛次郎記念館」となり

 

氏の辿ってきた道筋や作品が知れるようになっています。

 

 

 

北大路魯山人【人間国宝辞退】

北大路魯山人(きたおおじろさんじん)

 

料理人としても実績を残している

 

北大路魯山人について

 

来歴から作品の特徴などを中心に紹介します。

 

 

来歴

 

北大路魯山人は明治16年に、京都市にて生まれました。

 

また実家は京都でも最古とされる

 

上賀茂神社の神職を勤める家柄でしたが

 

父は自殺し母も行方不明となったため

 

幼少期は親戚の家に預けられて育ちました。

 

やがて小学校を卒業すると奉公に出され

 

明治36年には独立し

 

書家を目指していた北大路魯山人は

 

その翌年には日本美術展覧会で一等賞を受賞します。

 

 

また多趣味として知られた北大路魯山人の才能は

 

書だけには収まらず、食の趣味が興じ

 

美食倶楽部を設立しました。

 

そして食の趣味の一環で

 

料理に合う器を作るために作陶を始め

 

昭和11年に経営していた会社のやり方が

 

ずさんという事から追い出されたのをきっかけに

 

作陶作りに集中します。

 

 

作品の特徴と中国陶磁器

 

陶芸家としての北大路魯山人の特徴としては

 

中国や朝鮮・日本の古陶磁を基礎としたところです。

 

中国の陶磁器は見た目の華やかさがあると同時に

 

器のみならず動物や人物そのものを造形している作品など

 

多種多様な作風でアジアにまで影響を及ぼしました。

 

中国陶磁器は新石器時代から始まった

 

と言われていますが、やがて朝鮮でも作られる

 

鉄を含んだ釉薬によって青く発色した青磁も

 

中国の陶磁器から生まれたと言われています。

 

日本の陶磁器は縄文時代から始まっており

 

ここに釉薬が塗られたのは

 

奈良・平安時代とされているので

 

中国での陶磁器制作は世界的にも発展していました。

 

魯山人はこの中国陶磁器に着想を得ながらも

 

非常に自由で

 

また優れたセンスが反映された作品を制作しました。

 

また作品数は20万点以上もあると言われおり

 

あくまで趣味の一環として作っているものだったので

 

幅広い表現技法が見られます。

 

 

魯山人の師

 

北大路魯山人の師となるのが初代須田菁華です。

 

初代須田菁華との山代温泉での一年間の修行は

 

「器は料理の着物」と言う言葉を残す

 

北大路魯山人の哲学の基礎となります。

 

初代須田菁華は

 

石川県の金沢の商家として生まれ

 

染付や古九谷など多くの模古作品を生み出しています。

 

 

食がベースでもある魯山人の作品

 

北大路魯山人は陶芸家としてより

 

美食家としての側面に焦点が当たりがちですが

 

それはその分食に関して様々な面で貢献してきたからです。

 

例えば料理人として、また経営者としても

 

高級料亭「星岡茶寮」を切り盛りしています。

 

 

食について追求してきたからこそ

 

器について考えるようになり

 

北大路魯山人の生み出した「色絵金彩椿文鉢」や

 

「於里遍平鉢」は、まさに

 

「器は料理の着物」の言葉に納得できる

 

色鮮やかな作品となっています。

 

 

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