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三輪壽雪(十一代三輪休雪)【人間国宝】

三輪壽雪(みわじゅせつ)

 

半世紀以上にも渡り

 

萩焼作りに精進してきた三輪壽雪。

 

ここではその作風やその背景について

 

紹介していきます。

 

 

来歴

 

三輪壽雪は19102月に

 

山口県萩市で三男として生まれます。

 

氏の家庭は元々代々が「休雪」の名を受け継ぐ

 

萩焼の窯元であり

 

兄の10代目休雪となる邦廣から、

 

萩焼について学びました。

 

 

しかし作風への影響は10代目休雪よりも

 

1941年に訪れた

 

三輪窯の川喜田半泥子の影響の方が目立ちます。

 

三輪壽雪は川喜田半泥子から茶陶を学ぶと同時に

 

その自由な作風に影響を受け

 

三輪窯の和風茶碗をベースに

 

鬼萩茶碗や割高台茶碗と言った

 

個性豊かな作品を作りあげていきました。

 

 

そして1967年に兄の邦廣から「休雪」の名を受け継ぎ

 

「休雪白」や「白萩手」など

 

萩焼に新風を吹かせた事が認められ

 

1983年、重要無形文化財として

 

人間国宝に認定されました。

 

 

 

三輪壽雪にまつわる背景

 

三輪壽雪は1955年には

 

雅号を休として作家活動をスタートしています。

 

それまで30年以上の間は

 

兄の手伝いを行いながらも修行に明け暮れ

 

戦時中の1944年に召集令が出た時を除くと

 

作陶の手を止めなかったと言われています。

 

47歳の時には

 

日本伝統工芸展に初出品した「組皿」が入選し

 

3年後には日本工芸会正会員になりました。

 

その頃になると兄の邦廣と比べられていますが

 

比べても遜色ないくらいに力があると言われ

 

また自由な作風も大きな評判を得ています。

 

茶陶の世界は常識に囚われすぎていて

 

新しい物が生まれずらい所もありますが

 

川喜田半泥子によって

 

自由な発想を確立させた氏の作品は

 

以上のような背景の中で

 

新たな茶陶として歓迎されました。

 

 

また兄弟揃っての人間国宝への認定は前例がなく

 

それも大きなニュースとなって

 

陶磁器界に大きな衝撃を与えました。

 

 

 

作品

 

三輪壽雪の作品の特徴は

 

兄らと共同で研究した「休雪白」にあたります。

 

藁灰釉によってまるで白い砂糖とも称される白釉を

 

厚く塗った作風は

 

これまでの古萩にはなかったものでした。

 

また休雪白の技術を発展させた「白萩手」。

 

鉄分を多く含めた「紅萩手」。

 

化粧掛けの泥漿を使った「荒ひび手」なども用い、

 

自由で大胆な作品世界を表現しています。

 

 

 

まとめ

 

三輪壽雪は2012年の12月に亡くなります。

 

102歳と長命で、1955年に

 

作家として活動を始めた事を考えると

 

57年ほどの月日が流れていた事になります。

 

半世紀以上も萩焼作りに精進してきた三輪壽雪ですが

 

それでも自身の事を不器用と称していました。

 

 

しかし三輪壽雪自身の工房には三輪神社のご神符があり

 

制作の前にはいつも拝んでいたなど

 

「不器用」と称する裏には

 

作品作りに対する真摯な気持ちが

 

隠されているのではないしょうか。

 

 

 

三輪休和(第十代三輪休雪)【人間国宝】

三輪休和(みわきゅうわ)

 

三輪休和は苦難の時代に研究を続け、

 

人間国宝となりました。

 

ここではその作品の特徴を織り交ぜながら、

 

三輪休和(第十代三輪休雪)についてご紹介します。

 

 

来歴

 

三輪休和は18954月に

 

山口県萩市で次男として生まれました。

 

氏の家庭は代々が「休雪」の名を受け継ぐ

 

萩焼の窯元であり、三輪休和の本名は邦廣です。

 

幼少期から、祖父であり8代目にあたる

 

三輪雪山の作陶を学び、

 

1910年には萩中学校を中退し、家業を継ぎました。

 

 

三輪休和にとって最初の代表作と言えるのが

 

1923年に作った、当時の山口県知事に

 

奉るために作った郭子儀置物です。

 

以後も山口県知事に奉る為の作品作りは続けました。

 

1927年には、10代目として三輪休雪を襲名。

 

75歳の頃には、萩焼の人間国宝として認定されました。

 

1967年には弟に当たる節夫に休雪の名を渡し、

 

三輪休和は隠居する形となり名を「休和」と改めます。

 

 

そして1981年に

 

老衰のため86才でこの世を去りました。

 

 

 

三輪休和の研究

 

 

三輪休和は研究熱心であり、

 

萩焼が出来た最初の頃を示す古萩についても

 

深く知識を得ていました。

 

またそれだけでなく

 

朝鮮半島で生まれた高麗茶碗の研究も

 

熱心に行っていた事でも知られています。

 

高麗茶碗の研究は襲名後に目立つようになりますが

 

その頃の日本は幕末維新の煽りを受け

 

不況状態に陥り、陶磁器家も廃業や転向をするのが

 

後を絶ちませんでした。

 

三輪休和はそう言った時代において

 

高麗茶碗の研究をするため、朝鮮半島に渡ります。

 

そして高麗・李朝の時代の他の器についても

 

熱心に勉強しました。

 

 

 

作品の特徴

 

三輪休和の作品の特徴として上げられるのが、

 

休雪白(きゅうせつじろ)です。

 

休雪白とは藁を燃やした灰を使った技術の事です。

 

藁から出た純白とも称される白釉を

 

萩焼に塗った事が大きな話題ともなりました。

 

ちなみに休雪白は弟の節夫と共に研究を重ねた末

 

完成させたものです。

 

 

また三輪休和の作品にみられる、

 

高麗茶碗に萩焼の技術を融合させた点は

 

作品の大きな特徴の1つとも言えます。

 

三輪の研究の成果が現れた一点です。

 

 

 

 

三輪休和は1970年、休雪白などが認められ

 

人間国宝として認定されました。

 

大正・昭和初期の苦難の時代の中で

 

敢えて朝鮮半島に渡って研究をした事は、

 

当時非難の声が上がっていたことでしょう。

 

それでも人間国宝に認定されるようにまでなったのは

 

氏の努力の賜物以外何物でもありません。

 

 

 

伊勢崎淳【人間国宝/備前焼】

伊勢崎淳(いせざきじゅん)

 

伊勢崎淳は備前焼を代表する人間国宝の一人です。

 

ここではその作品作りを中心に紹介していきます。

 

 

来歴

 

伊勢崎淳は1936年、岡山県備前市にて生まれました。

 

父は陶芸家の伊勢崎陽山であり、

 

幼少期から既に備前焼のノウハウを受けています。

 

1959年に岡山大学特設美術科を出た後には、

 

高校教師として一年間働き、

 

そして本格的に備前焼の活動をスタートさせました。

 

伊勢崎の作品は茶陶や皿、花器やオブジェと言った

 

様々な焼き物を作っていることで知られています。

 

その後1998年には

 

岡山県重要無形文化財に認定され

 

その6年後の2004年、備前焼での功績が讃えられ

 

人間国宝に認定されました。

 

 

 

作品と特徴

 

伊勢崎淳の作品の特徴は、その斬新さにあります。

 

手掛けている焼き物の種類が多いだけでなく、

 

従来の形に囚われない

 

ダイナミックな造形を得意としています。

 

また斬新さと備前焼の素朴な味わいを

 

融合させている事でも知られており、

 

国内外で多くの支持者がいます。

 

そしてこのような大胆な作品作りの裏側には、

 

伊勢崎の研究熱心な側面が隠されています。

 

 

伊勢崎は兄であり陶芸家でもある伊勢崎満と共同で

 

姑耶山古窯跡にて

 

中世に使われた半地下式穴窯を再現し

 

陶芸作りの場として使いました。

 

 

また他分野の芸術家との交流も活発で、

 

例えば20世紀を代表する彫刻家でもあり

 

庭園や照明デザイン、家具も手がけるイサムノグチ。

 

画家でもあり文筆家としても才能を持つ

 

池田満寿夫とも繋がりを持ち、

 

その交流の影響で斬新な発想が生まれていた

 

と言われています。

 

 

また伊勢崎淳がこうした斬新な作品作りを行うのには、

 

ある信念があります。

 

それは

 

「伝統は変わり続けるものなので、

 

それを忠実に守る事こそが、

 

伝統を本当の意味で守る事になる」と言うものです。

 

これは備前焼のルーツになぞらえられるものですし、

 

本来備前焼は火に耐えにくく、

 

収縮率も大きく品質が一定しない陶土の欠点を

 

補佐するために生まれました。

 

そのため長年地元でも愛用されてきましたし、

 

「今後とも備前焼は地域に根ざすべきものだし、

 

その為に次世代に届くものを作る」と言う旨の発言も

 

伊勢崎淳は行っています。

 

 

 

備前焼

 

 

備前焼は釉薬を使いませんし、

 

模様を付ける事もしません。

 

その為に土本来の柔和な質感と

 

赤茶色の肌が引き立ちます。

 

伊勢崎淳はこう言った点も大切にしていました。

 

2週間にも渡る窯業での作業で、

 

備前焼の魅力を引き立たせていきます。

 

 

ちなみに、備前焼の釉薬を使わずに

 

1200℃から1300℃の高温で作る制作技法は、

 

須恵器から受け継いでいます。

 

 

 

加藤孝造【人間国宝/瀬戸黒】

加藤孝造(かとうこうぞう)

 

今年で83歳を迎える加藤孝造は

 

「瀬戸黒」の重要無形文化財保持者、

 

いわゆる人間国宝です。

 

無形文化財とは、歴史上または芸術上

 

文化的価値の高い、演劇・音楽・工芸技術などの

 

無形の文化的所産です。

 

日本では、無形文化財のうち特に重要なものを

 

「重要無形文化財」に認定しており

 

その保持者は俗に「人間国宝」と呼ばれています。

 

そして加藤孝造は、「瀬戸黒」の技法において

 

平成22年に人間国宝に認定されました。

 

その他にも、紫綬褒章、岐阜県重要無形文化財、

 

美濃陶芸協会名誉会長など、

 

数々の優秀な肩書を持っています。

 

 

 

「瀬戸黒」とその歴史

 

加藤孝造は、陶芸技法のひとつである「瀬戸黒」で

 

独自の作風を確立しました。

 

ここでは、この「瀬戸黒」というものについて

 

大まかにご紹介します。

 

 

「瀬戸黒」とは、岐阜県南東部の、

 

愛知県との県境に位置する土岐市・多治見市・

 

瑞浪市・可児市で製作される美濃焼のひとつで

 

この地方は、「東濃地方」と呼ばれています。

 

そして「瀬戸黒」の瀬戸とは、

 

愛知県瀬戸市の「瀬戸」からきているのでは

 

と考えてしまいそうですが、

 

そうとは断言できません。

 

ちなみに愛知県の瀬戸市で作られた焼き物は

 

「瀬戸黒」とは別に瀬戸焼と呼ばれています。

 

実は、東濃地方と愛知県瀬戸市は

 

県境で区切られてはいるものの

 

職人も、釜の作り方も、

 

陶土を産出する粘土層も同じであり

 

美濃焼と瀬戸焼に実質的な違いはありません。

 

美濃焼のひとつに「瀬戸」黒があるのも

 

こういった事情があるためと考えられています。

 

 

 

瀬戸黒は、焼き物の歴史とは切っても切り離せない、

 

茶の湯の歴史の中で生まれました。

 

織田信長が天下人となった天正のころに初めて作られた

 

とも言われており、

 

「天正黒」と呼ばれることもあります。

 

室町時代、日本国内の茶道では

 

中国的な華麗さが特徴の書院台子茶が好まれており

 

茶碗も唐風の天目茶碗が使用されていましたが、

 

次第に素朴・簡素が特徴の「侘び茶」が

 

好まれるようになっていきました。

 

茶聖と称される千利休は

 

この「侘び茶」の完成者として知られていますが、

 

静かで内包的な利休好みで作られた焼き物のひとつが

 

この「瀬戸黒」です。

 

侘び寂びの美意識で作られた「瀬戸黒」は

 

余計なものが削ぎ落とされ

 

形状はごくシンプルな筒状のものが多く、

 

茶碗の足の部分である高台は

 

極端に低くデザインされています。

 

そして、その美しい漆黒は

 

焼成中の釜から真っ赤なうちに引き出し、

 

急速に冷やすことで生み出されます。

 

この工程から「引出し黒」と呼ばれることもあり

 

このように鉄釉を漆黒に発色させる技法は、

 

京都の黒楽も同様です。

 

 

両者の違いは、京都の黒楽が「手びねり」で成形され

 

「低火度」で焼成されているのに対し、

 

美濃の瀬戸黒は、「ろくろ」で成形され

 

「高火度」で焼成されている点にあります。

 

 

 

加藤孝造の作風と来歴

 

加藤孝造の作品は

 

「気品や風格の中に、ぬくもりや穏やかさを感じる佇まい」

 

と表現されることが多くあります。

 

「志野」と「瀬戸黒」の重要無形文化財保持者である

 

荒川豊藏に倣い、加藤孝造は穴窯のある

 

志野・瀬戸黒・黄瀬戸で独自の技法を確立しました。

 

これは「孝造黒」「孝造志野」と呼ばれています。

 

加藤孝造は昭和10年、岐阜県瑞浪市で生まれました。

 

多治見工業高校卒業後、18歳になった昭和28年、

 

岐阜県陶磁器試験場で場長である

 

陶芸家・五代加藤幸兵衛に陶芸の指導を受けます。

 

ここから、加藤孝造の陶歴が始まりました。

 

加藤は洋画の才能にも恵まれていましたが

 

昭和30年に岐阜県陶磁器試験場工芸科の

 

主任技師に就任したあたりから

 

進路を陶芸に定めます。

 

以来、数々の賞を収め、還暦を迎えた平成7年に

 

「志野」「瀬戸黒」の技法で

 

岐阜県重要無形文化財保持者に認定され

 

75歳になった平成22年には「瀬戸黒」で

 

重要無形文化財(人間国宝)に認定されました。

 

 

金重陶陽【人間国宝/備前焼】

金重陶陽(かねしげとうよう)

 

金重陶陽は、備前焼で有名な岡山県備前市の

 

備前焼窯元六姓の金重家の長男として誕生しました。

 

明治29年備前市伊部で誕生してから

 

備前焼の再興に尽力し

 

昭和42年に死去するまで、備前焼の陶工として

 

活躍しています。

 

その功績を称えられ人間国宝にも選ばれ

 

備前焼の再興に多大な貢献を果たしました。

 

弟に金重素山、長男に金重道明、

 

三男は金重晃介などがいます。

 

 

陶陽は父である楳陽に

 

主に動物をモチーフにした細工物や置物の基本を習い

 

細工物の名手として腕を磨きました。

 

また陶陽は表千家の茶道も学んでおり

 

その造詣を深めることによって

 

備前焼の作品にも生かされています。

 

 

 

金重陶陽の技法

 

陶陽が作品に用いた土にはこだわりがあり

 

主に備前市田井山で採れる良土である

 

「観音土」と呼ばれる田土を

 

3年から10年、風雨にさらして

 

数年かけて精製して用いていました。

 

その良土と、こだわりの精製法で

 

陶陽独特の土味を得ることができました。

 

作りに於いては、端正に造られた

 

白みがかった火襷を用いた作品や

 

へらを使った大胆な作品もあります。

 

その相対する作品を見事に備前焼に昇華させています。

 

次に、陶陽の作品に見られる「焼き」についてですが

 

還元焼成した青、黒の部分が残る「桟切り」、

 

焼成によってできる胡麻のような模様の「胡麻」、

 

火襷などの窯変を多く用いています。

 

陶陽の時代では技術的にも

 

かなり難しかっただろうと推測される技法です。

 

そのような土や焼き、技法を合わせて駆使することで

 

陶陽の備前焼の作品の特徴は形成されていた

 

と言えるでしょう。

 

 

作品

 

陶陽が重要無形文化財「備前焼」の保持者に

 

認定されるまでに評価されたのは

 

その作品の素晴らしさと共に

 

やはり現在の備前焼の再興の礎となる技法を確立し、

 

その多くの秀れた弟子達の育成などにも

 

多大な功績を残したことにもあります。

 

桃山備前の伝統と格式ある優美な備前焼を再現しながら

 

斬新な新しい技法を用いて

 

現代の備前焼を作り上げた作品の数々は

 

その功績の重みを感じさせてくれます。

 

 

荒川豊蔵【人間国宝/志野・瀬戸黒】

荒川豊蔵(あらかわとよぞう)

 

荒川豊蔵は岐阜県多治見市で生まれた文化人です。

 

美濃焼作家としての彼の生涯や

 

彼の手がけた志野と瀬戸黒を

 

その時代背景と織り交ぜて紹介したいと思います。

 

 

荒川豊蔵とは

 

荒川豊蔵は明治27年、岐阜県多治見市で

 

長男として生まれました。

 

家の生計は父親である梅次郎の農業で立てていましたが

 

母親のなべは美濃の陶業の元祖となる

 

加藤与三兵衛尉景光の直系であり、

 

幼い頃より製陶を間近に感じていました。

 

明治39年に多治見尋常高等小学校高等科を出た後は

 

様々な場所を点々としながらも

 

一貫して陶磁器に関わる仕事をしていきます。

 

大正13年には東山窯に寄宿した北大路魯山人と知り合い

 

北大路魯山人の助手も務めました。

 

 

荒川豊蔵の功績は

 

志野・瀬戸黒と言った桃山時代の焼物の再現に注力し

 

また、妻の志づとの間に出来た武夫と共に

 

水月窯を築窯したことです。

 

その功績を称され昭和30年、人間国宝に認定され

 

数年後には文化勲章も受章しました。

 

さらに昭和59年には荒川豊蔵自身によって、

 

彼の作品を収めた荒川豊蔵資料館が開設されています。

 

亡くなる一年前のことです。

 

 

荒川豊蔵資料館は作品だけでなく

 

他にも陶房や石碑、居宅などもあります。

 

彼自身の生きた証がそこにはあります。

 

 

 

 

志野と瀬戸黒

 

志野は1586(天正14)に登場した

 

岐阜県可児郡・土岐市方面に栄えた茶陶です。

 

また瀬戸黒も天正時代に生まれましたが

 

昭和5年に荒川豊蔵によって、美濃大萱にて

 

その2つの古窯趾が発見される事で、

 

再び制作されるようになりました。

 

 

志野と瀬戸黒の技法について

 

志野焼は鉄分が少なめでピンクがかった

 

もぐさ土と言う白土を元に制作され

 

白色釉薬を使った志野釉の白釉を

 

多めに塗り、窯で焼成します。

 

完成された志野は細かい穴が全体的に多く入り

 

赤みの多い色となります。

 

 

瀬戸黒の場合は引出黒とも呼び

 

鉄分の多い釉薬を塗って窯に入れ、

 

窯から出した時に急激に冷やすことで

 

漆黒の器が出来上がります。

 

ちなみに天正時代当初の瀬戸黒は

 

模様もなく筒形であったのに対し、

 

荒川豊蔵の場合は金の粉末を木葉文を付けた事から

 

華やかな印象が生まれました。

 

 

 

荒川豊蔵の作品の特徴

 

荒川豊蔵の作品の特徴は

 

自身の独自の作品を作る事よりも

 

志野や瀬戸黒の再現に注力した所にあります。

 

特に当時志野が愛知県瀬戸市で作られていた

 

と言う通説を、自身が岐阜県東濃市で

 

古窯趾を見つけたことで覆しました。

 

荒川豊蔵が作った志野は特に

 

「荒川志野」と呼ばれています。

 

志野に限らず荒川豊蔵の作品は

 

芸術性と実用性が両立されており

 

前田青邨や川合玉堂との合作も行っています。

 

 

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