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五代 伊藤赤水【人間国宝/無名異焼】

五代 伊東赤水(いとうせきすい)

 

伊藤赤水は2003年に

 

重要無形文化財保持者として

 

人間国宝に認定されました。

 

ここでは伊藤赤水の歴史を

 

そのルーツと織り交ぜて紹介します。

 

 

無名異焼と赤水

 

伊藤赤水の制作する無名異とは

 

日本では佐渡金山の一帯でしか採れない

 

赤土の事です。

 

この無名異は焼き方によって色が変わりますが

 

明治時代からしばらく黒色となった時は

 

欠陥扱いとされていました。

 

その頃の日本は中国の朱泥に強く憧れを持っており

 

無名異はその鮮やかな色合いを目指して

 

焼かれたものだったので

 

黒色になれば言わば「失敗」と言えたのです。

 

ところが伊藤赤水は

 

無名異の赤の魅力を立てるのには

 

この失敗といえる黒を使うべきだと考え

 

無名異の赤と黒を使った

 

窯変壷を完成させました。

 

しばし自身の作品に

 

改革を促すような挑戦を続ける赤水の作品において

 

無名異による作品作りは

 

「逆転の発想」とも言われています。

 

窯変壷は赤と黒のコントラストが美しく

 

1972年に日本伝統工芸展に初入選となりました。

 

 

 

窯変壷から進化した「練上」

 

窯変壷の名誉は入選だけでは終わらず

 

1980年には日本伝統工芸展において

 

奨励賞を獲得しています。

 

ただ窯変壷は上が黒、下が赤と言う

 

ある種シンプルと言える見た目でした。

 

しかしその4年後となる1984年には

 

黒と赤の2色でありながらも複雑な模様を付けた

 

「練上」が完成しています。

 

「練上」は一年後の1985年に

 

8回日本陶芸展において

 

最優秀作品賞を受賞しました。

 

 

 

無名異から離れた作品作り

 

こうして伊藤赤水の名声は

 

無名異によって獲得したと言えます。

 

しかし赤水は無名異とは全く違う

 

作品作りのアプローチを試みるようになります。

 

それが2009年に発表した

 

佐渡の岩石を作った「佐渡ヶ島」です。

 

釉はなく石粒が取り除かれてない土をあえて使い

 

凸凹が目立つ一種無骨と言えるような

 

見た目になっています。

 

この「佐渡ヶ島」は

 

伊藤赤水のルーツを振り返っていると言えます。

 

 

伊藤赤水の作品の始祖ともいえる人物は

 

ゴールドラッシュに湧いた佐渡ヶ島に辿り着いた

 

伊藤伊兵衛です。

 

加賀の出身である伊藤伊兵衛は

 

佐渡ヶ島で陶土を使った送風管を作り

 

また無名異は佐渡金山から出ている事は

 

上で書いた通りです。

 

このように伊藤赤水の作品は

 

佐渡ヶ島に強く結びついているのです。

 

 

 

襲名制で様々な無名異を披露

 

また伊藤赤水の名は襲名であり

 

伊藤赤水(五代目)の本名は

 

伊藤窯一と呼びます。

 

初代の伊藤赤水から四代目の伊藤赤水も

 

無名異を使った作品作りを行っていますが

 

五代伊藤赤水の無名異とは

 

全く違ったアプローチを行っています。

 

初代から三代目は茶褐色の無名異であり

 

初代は楽達磨と言う作品。

 

二代目と三代目も花瓶を作っています。

 

四代目は薄茶色で兎図花瓶と言う兎が描かれた花瓶や

 

蝦蟇仙人も作ったりしていますが

 

色の華やかさとしては五代目が目立ちます。

 

このように伊藤赤水の作品は

 

五代目に限らず

 

様々な各世代の伊藤赤水が

 

自身のルーツと対峙しています。

 

 

 

中里無庵【人間国宝/唐津焼】

中里無庵(なかざとむあん)

 

唐津焼の知名度と隆盛を復活させた中里無庵。

 

氏の足取りと作風などについて紹介していきます。

 

 

来歴

 

中里無庵は1895年、佐賀県唐津市にて生まれました。

 

父の天祐は唐津藩御用窯の御茶碗師の

 

11代目中里太郎右衛門であったこともあり

 

無庵は小学生の頃から既に

 

御茶碗師になる夢を持っていました。

 

しかし当時は有田焼の方の知名度が上で

 

唐津焼は、その影に隠れていました。

 

それでも1914年に

 

佐賀県立有田工業高校別科製陶科を卒業した後も

 

唐津窯業株式会社や

 

唐津煉瓦株式会社への勤務を通して

 

唐津焼に携わりました。

 

1922年には材木商である

 

無津呂家家の養子となりますが

 

5年後の1927年に父の天祐が亡くなったの受けて

 

12代目中里太郎右衛門を襲名します。

 

 

その後も唐津焼の復興に尽力し

 

1969年、長男の忠夫に

 

13代目として中里太郎右衛門の名を明け渡し

 

自身は無庵となりました。

 

そして1976年に人間国宝に認定された後

 

1985年、無庵は 息を引き取りました。

 

 

 

作風と「叩きの技法」

 

中里無庵が注目される点は

 

やはり唐津焼の復興に尽力した所です。

 

1929年に始まった

 

古唐津窯跡発掘調査時に学んだ

 

「叩きの技法」は有名です。

 

「叩きの技法」とは細長い土を重ねてから

 

叩いていく技法です。

 

元は縄文式土器から始まっていますが

 

唐津焼は独自発展を遂げたものとして

 

知られています。

 

「叩きの技法」では内側を叩くことで

 

薄く、かつ丈夫な器となります。

 

もちろん中里無庵の作品作りにも

 

「叩きの技法」が使われており

 

特に「叩き青唐津水指」や

 

「叩き黄唐津壷」などが有名です。

 

 

 

倒炎式角窯について

 

また中里無庵は父が亡くなった後

 

先祖代々から使ってきた御茶碗窯に

 

倒炎式角窯を設けました。

 

倒炎式角窯は熱効率が高く

 

また熱損失も少ないと言った特徴があり、

 

これを作品に活かしています。

 

他に倒炎式角窯内では

 

釉薬をかけたものを焼き

 

冷めにくい性質もある事から

 

柔和な雰囲気を持つ作品が生まれる

 

と言われています。

 

 

 

 

 このように中里無庵は積極的に研究し

 

それに付随する窯や技術などを再現したため

 

唐津焼の権威とも言える存在となりました。

 

特に中里無庵の作った唐津ぐい呑は

 

『東は「セトモノ」、西は「カラツモノ」』

 

と言われていた時代を体現している

 

と言われています。

 

元々、唐津ぐい呑は

 

桃山時代には茶人の間で使われ

 

素朴な雰囲気と可愛らしい絵唐津で

 

好評を博しました。

 

そして中里無庵の作った唐津ぐい呑は

 

絵唐津ではないものの

 

唐津の要素と中里無庵の技術が

 

詰まっていると言われ

 

唐津ぐい呑も70以上の唐津焼の窯元が

 

唐津市内に復活するまでに至りました。

 

 

 

藤原雄【人間国宝/備前焼】

藤原雄(ふじわらゆう)

 

備前焼の重要無形文化財保持者として

 

1996年に人間国宝として認定された陶芸家であり

 

同じく人間国宝であった

 

父・藤原啓の下で作陶に励みました。

 

ここでは藤原雄の生涯と作風について

 

ご紹介していきます。

 

 

 

来歴

 

藤原雄は1932

 

岡山県備前市にて生まれます。

 

父は人間国宝でもある藤原啓で

 

藤原啓が最初は作家志望で

 

編集者として携わっていたように

 

藤原雄もまた雑誌編集者として働きます。

 

 

しかし生まれつき左眼は失明し

 

右眼の視力は0.03の弱視であった雄が

 

編集者としても陶芸家としても

 

苦難を強いられたことは想像に易くありません。

 

やがて藤原雄は雑誌編集の仕事を辞め

 

故郷に戻った際、

 

陶磁研究家でもあり陶芸家でもある

 

小山冨士夫の後押しも手伝い、陶工となります。

 

その後父の指導の下で備前焼作りが始まり

 

父と同じように1996年には

 

備前焼の普及が認められ

 

人間国宝となりました。

 

そして2001年、10月にこの世を去りました。

 

 

 

作風について

 

藤原雄の作風の特徴は

 

とにかく一目で見れば藤原雄が作ったもの

 

と分かるくらい、温かみがありながらも

 

自由性がある所と言われています。

 

備前焼の持っている魅力を

 

そのまま活かしているとも言われ

 

作品を見る者の心に

 

温かい感情を語りかけてきます。

 

事実、藤原雄は生前

 

「人間の持っている様々な温かい感情が

 

作品から感じるようにしないといけない」

 

と言う旨の言葉を語っています。

 

しかしそのメッセージ性を

 

強く押し付けるのでなく、

 

むしろ穏やかな雰囲気であるのが

 

藤原雄の特徴です。

 

 

 

備前焼の技法

 

氏の作品に限らず

 

備前焼でよく使われている技法は

 

「削ぎ」や「透かし」、「線彫」などです。

 

「透かし」や「線彫」などで

 

模様を付けていますが

 

「削ぎ」も重要な部分となります。

 

 

「削ぎ」はその名の通り、凸凹した部分を

 

ヤスリなどで削って取っていく作業の事です。

 

しかしその削ぎをし過ぎると凸凹があまりにもなくなり

 

そうすると素っ気ないとも言われます。

 

よって「削ぎ」も作家性が問われる部分となり

 

藤原雄もその技法を自身の作風に活かしました。

 

 

 

国内外の反響

 

藤原雄は30代に差し掛かると

 

世界中で注目を集めるようになります。

 

まず1963年、31歳の時に

 

スペイン・バルセロナでの

 

「国際陶芸展」に招待され出品し

 

そこで大賞を獲得しました。

 

その翌年となる1964年には1月から8ヶ月に渡り

 

アメリカやカナダ、スペインやメキシコで

 

備前焼の講座をします。

 

また同年には

 

オーストラリア政府からの依頼で

 

シドニー大学でも講座を受け持ちました。

 

それ以後も海外で講義を続け

 

日本陶磁器協会賞や金重陶陽賞も受賞。

 

国内外問わず個展も行っていきます。

 

 

そして1996年、

 

国内外に向けて備前焼の発展と

 

普及をした事が認められ

 

人間国宝となったのです。

 

 

 

福島善三【人間国宝/小石原焼】

福島善三(ふくしまぜんぞう)

 

福島善三は2017年、わずか58歳と言う若さで

 

人間国宝に認定されました。

 

ここでは氏が作っている小田原焼の特徴と

 

歴史を織り交ぜながら

 

福島善三について紹介していきます。

 

 

 

来歴

 

福島善三は1959 1029日に

 

福岡県朝倉郡にて生まれます。

 

小石原焼の窯元の息子として育ちますが

 

陶芸家の道に進むことを決定付けたのは

 

朝倉高校を卒業し、福岡大学で

 

学生生活を送っていた所から始まります。

 

その頃窯を見るため

 

様々な場所を訪れていたのですが

 

自身と深く結び付く小石原の素晴らしさを知り

 

1982年に大学を卒業すると同時に

 

家業を受け継ぎました。

 

 

そして現在も201758歳の時に

 

重要無形文化財「小石原焼」の保持者として認定され

 

「陶芸界の若き人間国宝」と称されながらも

 

挑戦を常に忘れない作品作りを知られています。

 

 

 

小石原焼について

 

小石原焼は朝倉郡の東峰村や小石原地区において

 

400年ほども続く陶磁器として知られています。

 

実用性がありながらもモダンで

 

あまり肩苦しく感じさせない見た目は

 

世界中に支持者がいます。

 

また、日本で初めて

 

伝統工芸品として指定された歴史も

 

小石原焼にはあります。

 

そして東峰村には小石原焼の展示や

 

体験も可能な

 

「小石原焼伝統産業会館」があります。

 

 

 

人間国宝の認定が被災した住民の励みに

 

2017721日に、重要無形文化財保持者として

 

福島善三は人間国宝として選定されました。

 

その2週間ほど前となる75日に

 

九州北部豪雨災害が起こり、

 

東峰村では窯元が被災し

 

多くの蔵元が廃業せざる得ない状況まで

 

追い込まれました。

 

 

しかしその中で福島善三が

 

人間国宝として認定される運びになったのは

 

地元の大きな励みとなりました。

 

また県と村とよって、被災した窯元達が

 

共同で使える窯が作られる事が

 

被災から1ヶ月後となる8月に発表されました。

 

 

 

小石原焼の技法と福島善三の代表的作

 

福島善三が受け継いた小石原焼は

 

工具の刃先によって削り目を連続で入れる

 

「飛び鉋」と言う技法を使っています。

 

小石原焼特有の

 

素朴かつ堅苦しくない柔らかい色合いは

 

「飛び鉋」からも来ています。

 

他に小石原焼には様々な技法が使わてれおり

 

例えば白泥が塗られた土に

 

釉をかけ刷毛目を残す「刷毛目」。

 

表面が柔らかい状態の素地に

 

竹ぐしや金ぐしなどで模様をつける「櫛目」。

 

さらに「流し掛け」や「指描き」、

 

「打ち掛け」などがあります。

 

 

 

福島善三の信念

 

福島善三は他にも中野月白瓷鉢や赫釉鉋文壷

 

福岡市長賞を受賞した中野月白瓷組平皿や、

 

日本工芸会総裁賞の名誉を受けた

 

鉄釉掛分条文鉢など

 

名作を多く生み出しています。

 

しかしこれらは今までの小石原焼と大きく姿が違い

 

一部で批判の声が上がっています。

 

 

ですがそれは福島善三の

 

「伝統を守るには変えていくこと」という

 

信念によるものです。

 

福島善三は今でも

 

挑戦的な作品作りを行っています。

 

 

 

藤原啓【人間国宝/備前焼】

藤原啓(ふじわらけい)

 

 

40歳で陶芸の道を歩み始めた藤原啓。

 

ここではその歩みを備前焼の由来や

 

技法などを交えながら紹介していきます。

 

 

 

来歴

 

 

藤原啓は1899

 

岡山県備前市穂浪にて生まれました。

 

人間国宝となる陶磁器家は

 

実家が窯元であるのことが比較的多いのに対し、

 

藤原啓の場合は農業を営む家庭に育ちました。

 

また藤原啓は元々作家志望で

 

俳句で賞を獲ったり出版社の編集に関わったりしますが

 

途中でその道を断念しています。

 

 

藤原は40歳となった1939年に故郷に戻り

 

弟の勧めで三村梅景から

 

備前焼を教わることとなります。

 

また2年後の1941年には金重陶陽の指導を受けたり

 

そのほか北大路魯山人と言った面々からも教わります。

 

 

1970年に重要無形文化財保持者として

 

人間国宝に認定され

 

その後198311月に肝臓ガンで亡くなりました。

 

 

 

備前焼と藤原啓

 

 

鎌倉・室町次第の備前焼をベースにしています。

 

藤原啓の作品の特徴は

 

鎌倉備前を基本としながらも素朴でたくましく

 

そして大らかで温かみのある所です。

 

藤原啓自身は自身の作品を

 

「たくましく育った田舎娘」と称しているようですが

 

藤原啓の人柄がそのまま現れているようだ

 

というのがもっぱらの評判です。

 

 

また師となる金重陶陽は

 

桃山時代の作品の再現を追求しているのですが

 

藤原啓の場合は鎌倉・室町次第の古備前が

 

作品作りのベースになっているようです。

 

よって前述したような作風が生まれ

 

作品は「藤原備前」とも称されています。

 

 

 

備前焼

 

備前焼は日本六古窯の一つで

 

釉薬を使わず焼成した時の状況が

 

ダイレクトに出る焼き物として知られています。

 

1200度以上の薪窯の中で粘土中の金属成分や

 

松割木の灰、藁などが複雑に混じり合い

 

素朴ながらも様々な表情が生まれます。

 

備前焼の作家はもちろん意図を込めて

 

それらの事を考えて作品作りに取り掛かりますが

 

予期しない結果が生まれることもあり

 

それも魅力の一つとして数えられます。

 

 

備前焼は元々、岡山県瀬戸内市にて

 

古墳時代から続く須恵器をベースにしています。

 

須恵器と同じ青灰色と

 

最初は須恵器の影響を色濃く受け継いでいました。

 

ですが南北朝時代の後半になると

 

赤褐色のものに変わりました。

 

またその備前焼に

 

岩絵具や胡粉などで色付けしたものを

 

彩色備前と言うのですが

 

藩を治める人達への贈り物だったことから

 

当時の一般の人は見る事はありませんでした。

 

ちなみに桃山時代以前のものは「古備前」。

 

江戸時代からのものは「伊部焼」とも言われています。

 

 

金重陶陽はその備前焼の新作を現代に作った事により

 

人間国宝として認定されますが

 

藤原啓もまた違う時代の備前焼を

 

復活させた事になります。

 

そして備前焼において

 

藤原啓は金重陶陽に続いて

 

2番目の人間国宝となります。

 

 

元々作家志望立った事から

 

備前焼作家として遅い始まりとなった藤原啓。

 

しかし備前焼にも以前の夢と同じように

 

情熱を注いだ事から

 

人間国宝にまでなったのは何か勇気を頂けます。

 

 

 

山本陶秀【人間国宝/備前焼】

山本陶秀(やまもととうしゅう)

 

山本陶秀は早熟の天才ながら長寿となった晩年まで

 

作品を作り上げてきた事で知られています。

 

ここではその来歴や作風などを紹介していきます。

 

 

来歴

 

山本陶秀は19064月に

 

岡山県備前市にて4男として生まれました。

 

陶芸家としては早熟で192115歳の時に

 

備前藩主の池田光政で有名な備前市最大の窯元

 

黄薇堂に入り作品を発表します。

 

そして27歳の時には独立しました。

 

 

1938年には作家集団「赤土社」のメンバーでもあり、

 

代表作「白磁四方花瓶」でも知られている

 

楠部弥弌に師事しています。

 

その後81歳となった時に

 

優れた備前焼の技術が認められ

 

人間国宝に認定されました。

 

そしてそれから7年後となる

 

1994年にこの世を去りました。

 

 

 

山本陶秀の交友と時代背景

 

 

戦前から戦後まで駆け抜けた山本陶秀は

 

著名人との交流も有名です。

 

特に陶芸家でもあり、書家や画家、

 

料理研究家としての顔を持つ北大路魯山人。

 

日系人としてアメリカや日本の文化を受け継ぎ

 

作品を発表していった彫刻家の

 

イサム・ノグチらと親交があるのは有名です。

 

 

しかし山本陶秀も

 

戦争に利用された被害者の一人でもありました。

 

「ろくろの陶秀」や「ろくろの名手」など

 

通り名が付くほど有名だった山本陶秀は

 

その技術を軍に見込まれ

 

陶器製の手りゅう弾を作らされたこともありました。

 

 

 

作品

 

 

山本陶秀の作品の特徴はやはり

 

「ろくろの陶秀」や「ろくろの名手」と言った

 

通称に隠されています。

 

謂れはろくろを作る技術も高い事ながら

 

繊細さも併せ持っている点です。

 

神業と呼ばれ

 

また他の追随を許さないとも言われています。

 

その為か素朴な雰囲気の作品が多い事で

 

知られている備前焼ですが

 

山本陶秀はまるで高位の人間のように誇り高く、

 

また色気もある作品を作りあげています。

 

 

代表作は備前急須です。

 

作品には三角形の「マ」の印が

 

付いていることもありますが

 

この印は山本陶秀の作品としては中期頃となります。

 

またその作品は備前焼として

 

初めて人間国宝に認定された、

 

金重陶陽の影響を受けていると言われています。

 

そして氏の温かな作風は海外からの評価も高く

 

スペイン国王と王妃へ花瓶を奉った事も有名です。

 

 

 

まとめ

 

 

山本陶秀は金重陶陽や藤原啓と共に

 

戦後の備前焼を支えた

 

『備前三人衆』と言われています。

 

中でも山本陶秀が理想としていたのは

 

「桃山備前」の通称のある安土・桃山時代の茶陶です。

 

80歳の時には

 

その技術は頂点を極めたと言われており

 

人間国宝に認定されたのもその翌年にあたります。

 

 

しかしそれでも山本は

 

備前焼に対して新しい視点を持ち続け

 

その遺伝子は同じ陶芸家の道に入った

 

息子の山本出に引き継がれる事となりました。

 

 

 

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