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近藤悠三【人間国宝/染付】

近藤悠三(こんどうゆうぞう)

 

近藤悠三は京都の出身の陶芸家で、75歳の時に

 

染付技法の重要無形文化財保持者の認定を受けました。

 

12歳で京都市立陶磁器試験場付属伝習所轆轤科に入所し

 

卒業後は同試験所の助手として勤務していましたが

 

のちに退職し、大和の窯で創作活動をしていた

 

富本憲吉に師事しています。

 

その後、京都に戻り関西美術院洋画研究所で

 

洋画やデッサンを学ぶと同時に

 

清水で窯を構えて制作活動を始め

 

26歳の時から帝展で出品した作品が

 

13回連続で入賞したことで、その名を広めました。

 

そのほか54歳の頃には第三回日本伝統工芸展で

 

「山水染付壺」が日本伝統工芸会賞を受賞

 

68歳の頃には紫綬褒章も受賞しています。

 

 

 

【近藤悠三の作品の特徴と技法】

 

近藤悠三の陶磁器における技法の最大の特徴は

 

染付の技法に凝縮されています。

 

ぼかしを用いた筆使いで濃淡をつけて描き

 

絵具もコバルトを精製せず敢えて不純物である

 

鉄やマンガンを含有させることで

 

青白く滲んだ濃淡を浮遊させる、

 

趣のある作品を生み出します。

 

そのような染付の技法を駆使した作品には、

 

葡萄、柘榴、松、梅、山水、詩文などの模様が多く

 

それぞれが大胆かつ味わいのある画風で描かれました。

 

 

染付に用いられる鉱物の中には

 

「呉須」と呼ばれるものがあります。

 

これは陶磁器の染付に用いる顔料の一種であり

 

焼成を行う際に釉に反応して青色を発色します。

 

また、呉須で描かれた陶器は染付と呼ばれ

 

中国では、青花と呼ばれます。

 

呉須土は酸化コバルトを主成分として

 

鉄、マンガンなどの酸化物を多く含んでおり

 

これらの酸化物が多いほど

 

釉の色がくすんだ色になっていきます。

 

日本では主に愛知県の瀬戸地方に産出されましたが

 

少量の為中国からの輸入に頼ることが大きく

 

それらは唐呉須と呼ばれました。

 

また近藤は、金彩や赤絵などの技法を用いた作品も

 

制作しています。

 

赤絵とは、色絵、五彩とも呼ばれる絵付陶磁のことで

 

特に赤絵の具が基調となっているのが

 

その名の由来です。

 

 

近藤悠三の代表作品の中の一つ

 

直径126cm、重量約100kgの梅染付けの大皿は、

 

これらの技法が使われた平皿で

 

世界最大級の規模を誇ります。

 

その豪放な筆致は圧倒的な迫力で、

 

見るものを感嘆させます。

 

 

 

【近藤悠三の評価される所以】

 

近藤悠三は伝統的技法の研究でその技術を追究しながら

 

独自の染付けの技術を会得していきました。

 

民芸調な素朴かつ力強い

 

自由な作風が評価されています。

 

海外でも評価は高く、

 

アメリカ開催の現代世界陶芸家展に

 

日本から選ばれた陶芸家の一人にも選ばれました。

 

オックスフォード大学やオークランド美術館にも

 

作品が収蔵され

 

また、ミラノ・トリエンナーレ展に出品した

 

「染付花瓶」は銀賞を受賞しています。

 

 

 

角谷一圭【人間国宝/茶の湯釜】

角谷一圭(かくたにいっけい)

 

釜師角谷一圭は1904年に

 

大阪市東成区で生まれました。

 

元々宮大工であった家庭に育ち

 

6歳頃から鋳物師である父、角谷巳之助の元で

 

仕事を手伝い始めると

 

21歳で大阪工芸展に初出品した「海老釜」が

 

高松宮総裁賞を受賞しました。

 

その後は制作活動を続けていき、57歳の時には

 

8回日本伝統工芸展で「独楽釜」が朝日新聞賞を、

 

72歳の時には勲四等瑞宝章を受章しています。

 

そして数年後、茶の湯窯の分野で

 

重要無形文化保持者に認定されました。

 

 

 

【角谷一圭の作品】

 

角谷一圭の制作する茶釜は

 

錆は独自の格調高い風情と毅然とした佇まいを、

 

施された文様はそこから優美さを感じさせ

 

我々を魅了します。

 

その文様は、戦後に出回っていた

 

茶釜の名品の修復に長年携わってきた

 

角谷自身の経験が生かされており

 

形態や地紋、鉄味など研究の成果を

 

存分に作品に反映していると言えるでしょう。

 

角谷一圭は自身の作品を

 

鎌倉期の筑前や芦屋釜をベースに築いていきました。

 

 

華々しい数々の受賞歴は

 

釜師としての地位を築き上げましたが

 

その制作意欲は幼少の頃から携わっていた

 

釜師としての仕事と茶の湯の世界に精通したい

 

という気持ちの表れでもあり

 

その思いが人間国宝にまで上り詰める

 

大きな要因でもあったと見受けられます。

 

 

 

【角谷一圭の評価される所以】

 

角谷一圭と言えば茶道界でも知らない人がいない

 

と言われるほどの茶釜師で、

 

釜師としてとても有名ですが

 

1993年には第61回伊勢神宮

 

式年遷宮御神鏡31面鏡を制作するなど

 

日本の伝統文化にも深く精通しています。

 

和鏡の研究にも情熱を注ぎ

 

優美なヘラ押し文様の技術を確立しました。

 

その技術と知識を以って、上記の

 

伊勢神宮式年遷宮御神鏡31面鏡の制作では

 

見事なまでに美しい和鏡を仕上げています。

 

 

このように日本文化を大切に思い

 

作品を作り上げる情熱は、日本の伝統文化を尊ぶ

 

角谷一圭の作品の美しさを一層引き立てています。

 

 

 

海野清【人間国宝/彫金】

海野清(うんのきよし)

 

彫刻家海野清は1884年に東京で生まれます。

 

27歳の時に東京美術学校金工科を卒業し

 

水戸金工の名工と謳われた父であった

 

海野勝珉、加納夏雄に師事しました。

 

その後35歳で東京美術学校の助教授に就任し

 

翌年、第9回帝展では「鸚鵡文金属小筥」が

 

特選を受賞しています。

 

それからは帝展、新文展の審査員を歴任し

 

40後半にはフランスに留学しました。

 

帰国後は勲三等瑞宝章を受賞したのち

 

東京芸術大学の教授や

 

日展運営会常任理事を務めています。

 

そして71歳のときに彫金の分野で

 

重要無形文化財保持者に認定されました。

 

晩年は全日本工芸美術家協会会長や

 

日本彫刻家会長を務めています。

 

 

 

【海野清の作品の特徴と技法】

 

海野清の作風に見られる大胆な表現は

 

伝統的な技法をベースにして

 

次々と新しい技法や表現方法を編み出し

 

革新的な創作活動を探求していることに

 

基づいていると言えるでしょう。

 

主に、獣や鳥、仏像、草花などをモチーフに

 

独自の構図と大胆な表現で作品を作り出し

 

作品は花瓶や置物、文具関係など種類は様々です。

 

また、海野清がフランスに留学した経験は

 

その作品に大きな影響を与えました。

 

伝統的な毛彫とフランスで学んだ技術を

 

ミックスさせた優雅な作品を生み出し

 

作品の一つ「観音」などは

 

その技術をふんだんに駆使して

 

金色に色めくとても美しい作品に仕上がっています。

 

その繊細なデザインは、鋭いたがねを使って

 

観音菩薩の柔和な表情を掘り出したもので

 

緻密な線引きは「素晴らしい」の一言に尽きます。

 

加えて、独自のタッチで

 

エレガントな美しさも演出しており

 

伝統的な手法と独自の手法を織り交ぜることで

 

新しい美の価値観や崇高な精神性をも

 

作品に刻み込みました。

 

 

 

【海野清の評価される所以】

 

海野清の彫刻家としての制作意欲は

 

その地位を確立した後も失われることなく

 

技術の追究、表現方法の探索を常に追い求めました。

 

フランスに留学したのちは、西洋の彫刻を学び

 

新たに立体的な造形を取り入れています。

 

その作品の数々は古典的な技法を踏襲しながらも

 

格式あるモダンな造形美の可能性を追求しており

 

新しい表現方法の探求は常に続けられました。

 

また、彫刻家としての制作活動だけでなく

 

帝展や新文展などの審査員として、後に続く

 

彫刻家の育成にも寄与しています。

 

日本彫刻家会長や

 

全日本工芸美術家協会会長なども歴任し

 

彫刻の発展に尽力しました。

 

 

 

加藤卓男【人間国宝/三彩】

加藤卓夫(かとうたくお)

 

1917年生まれの加藤卓男は

 

古代ペルシア陶器と日本の陶器の融合において

 

多大な功績を築いた陶芸家です。

 

28歳の頃に戦争で被爆し、白血病治療を経て

 

44歳でフィンランド工芸美術学校を修了しました。

 

その後は実力を発揮していき

 

6回日展で特選北斗賞を受賞、

 

また、50代でイランパーレヴィ王立大学付属

 

アジア研究所に留学した際には

 

ペルシア古陶発掘調査にも参加しています。

 

60代の頃には、宮内庁からの依頼で

 

正倉院三彩の復元などにも従事し

 

そのほかトルコのトプカプ宮殿美術館で個展を開くなど

 

海外での活動も積極的に行いました。

 

これらの功績によって、加藤は71歳で紫綬褒章を受賞し

 

78歳の時に三彩の分野で

 

重要無形文化財保持者に認定されました。

 

 

 

【加藤卓男の作品の特徴と技法】

 

加藤卓男の作品の魅力は何と言っても

 

その色彩の美しさにあります。

 

これは長年、古代ペルシア陶器の色彩や

 

独特の造形美を研究し青彩、三彩、ペルシア色絵を

 

追究してきたことからくるものでしょう。

 

その独創的な造形と青色を昇華させた作品は秀逸です。

 

加藤卓男が再現した技法の一つである「ラスター彩」は

 

イスラム陶器の一つで、スズ白釉を塗った素地を

 

銀や銅を用いて酸化させ、低火度で焼成し

 

美しい文様を描き出したものです。

 

元来、ラスター彩の技法は9世紀

 

メソポタミアで用いられたことをきっかけに

 

エジプトやイランに伝わった手法で

 

その陶器の表面に彩られた文様は

 

金属の持つ特有の輝きを最大限に引き出します。

 

ちなみに日本では、「虹彩手」、「きらめき手」などと

 

呼称されており、異民族のエキゾチックな文化と

 

日本の優美な芸術性が見事に融合し

 

新しい美しさを生み出しています。

 

 

また、加藤が得意とした「三彩」は、上絵付けに

 

鉛(白)、銅(緑)、鉄(黄)の3種類の釉を用いて

 

低火度で焼き上げた焼き物のことを指します。

 

必ず3色というわけではなく、高火度のものや

 

2色、4色のものも「三彩」と呼ばれ

 

一つの陶器に2種類以上の色彩が用いられる

 

華やかな陶器のことを指すのです。

 

中でも、唐から明の時代に作られた三彩は

 

「唐三彩」と呼ばれ代表的な「三彩」

 

そして日本の正倉院の所蔵する皿、鉢、壺などは

 

「奈良三彩」と呼ばれ、

 

その出来栄えから「唐三彩」と区別されています。

 

 

 

【加藤卓男の評価される所以】

 

加藤卓男が評価される点は

 

ペルシアから日本に広がった焼き物を体系的に実現させ

 

かつ独自の技術を会得し

 

その芸術性を高めたことと言えるでしょう。

 

正倉院の復元や古代のペルシア陶を

 

研究して再現するだけでなく

 

現代の陶芸家として斬新な

 

一つの境地に辿り着いた点が評価されています。

 

また、日本の陶芸展や国際的なコンペでも

 

審査員を務めたりと、加藤の陶芸界への貢献度は

 

非常に大きいものです。

 

陶芸界を長年リードしてきた存在とも言えるでしょう。

 

 

 

井上萬二【人間国宝/白磁】

井上萬二(いのうえまんじ)

 

1929年佐賀県西松浦郡で生まれた陶芸家井上萬二は

 

窯元を営んでいた父の勧めにより10代の頃から

 

13代目酒井田柿右衛門の元で働きました。

 

後に、奥川柿右衛門の門下生となって

 

白磁や轆轤の技法を習得していきます。

 

酒井田柿右衛門の窯を出た後は

 

有田窯業試験場の技官として従事しましたが

 

その間も独自の釉薬、意匠などの

 

研究を続けていきました。

 

 

1969年には、ペンシルバニア州立大学で

 

有田焼の講師として従事し

 

そのほかドイツで個展を開催したり

 

モナコ王国でも展覧会に出品するなど

 

海外でも精力的に活動しました。

 

また、日本国内では1987年に日本伝統的工芸展で

 

通産大臣賞を受賞

 

1995年には白磁の分野で

 

重要無形文化財保持者に認定されました。

 

そして2年後、68歳の時には

 

紫綬褒章を受賞しています。

 

 

 

【井上萬二の作品の特徴と技法】

 

井上萬二の「白磁」作品の特徴は

 

その形の美しさに象徴され

 

本人も「形そのものが美しさ」と捉えていました。

 

特に「白磁」は端正に作り上げることが一番難しく

 

井上自身もそのことを深く痛感していました。

 

単純な形ほどその人柄が出てくるもので

 

陶芸家の生き方や陶芸に対する魂のようなものが

 

試されると認識していたのです。

 

座右の銘には「名陶無雑」という言葉をかかげ

 

雑念のない作品の完成を心がけたことで

 

その作品は過度に装飾されておらず

 

端正な形をしたものが多く見られます。

 

 

また、一般的に釉薬は、粘土や灰を水に入れ

 

懸濁させたものが使われることが多いのですが

 

ガラス質のような陶磁器の表面の美しさを引き出す為の

 

釉薬の研究には特に力を入れていました。

 

 

このように井上の作品は、作品の基調を決める陶磁器の

 

表面のうわぐすりである釉薬や磁器の成形にこだわり

 

伝統的な技法を大切にしてその「白磁」が

 

本来持つ美しさを見事に引き出しています。

 

 

 

【井上萬二の評価される所以とは】

 

その無駄のない、極限までそぎ落とした

 

シンプルな「白磁」の形の美しさを追求している部分が

 

井上萬二の評価されるところでしょう。

 

「白磁丸型壺」に見られるような

 

大きく丸い形を成形するのには

 

実は相当な技術の修練を要します。

 

雑念を取り払い自己を厳しく突き詰めた

 

井上萬二がゆえに造詣できる名器と言えるでしょう。

 

 

また井上萬二は、海外でも高く評価されています。

 

海外展を積極的に行い日本の美を広める為に尽力をし

 

後進の育成にも力を尽くしています。

 

そのような地道な活動と陶磁器に対する真摯な姿が

 

強く人々の心を掴んでいるのでしょう。

 

 

 

吉原治良【画家】

1905年に生まれ、10代の頃に目にした

 

ゴッホやセザンヌの作品に強い影響を受け

 

絵画の道に没頭していきました。

 

他人の模倣を厳禁とし、自身の個性を

 

日々表現することを信念とした吉原の作品は

 

鮮やかな色遣いにシュルレアリスム的な

 

独特な雰囲気のあるものや

 

50代後半からは特に『円』をモチーフとしたものなど

 

様々なジャンルの作品が見られます。

 

 

 

ここではそんな吉原治良についてご紹介していきます。

 

吉原治良(よしはらじろう)

 

 

大阪で植物油問屋の家に生まれた吉原は

 

中学の頃から油彩画を始めました。

 

やがて印象派の画家たちの作品に感銘を受け

 

23歳の頃には自身の個展を開くまでの

 

才能を発揮しています。

 

その後吉原はフランスから帰った

 

画家の上山二郎と知り合うと

 

彼の影響を大きく受けながら

 

魚をモチーフとした作品を多く作成し

 

『魚の画家』としてその名を広めていきました。

 

 

そして20代前半の頃には、後の株式会社Jオイルミルズ

 

となる実家の家業の一端を担うようになります。

 

しかし、入社後も制作活動は続き

 

その後訪れた藤田嗣治との出会いは

 

吉原の絵画作品とその精神に大きく影響を与えました。

 

吉原の作品を見た藤田からの

 

吉原の作風にみられた周囲からの影響の大きさと

 

個性の薄さについての強い指摘に

 

吉原は大きな重要性を感じ、以後

 

他人のまねをしない、独自の作品を

 

生涯追及していくようになったのです。

 

 

 

この頃から吉原は徐々に抽象画をよく描くようになり

 

戦後は吉原製油の社長を務めながら

 

制作活動もこなしました。

 

50歳頃には関西の前衛作家たちと

 

『具体美術協会』を設立し、

 

自身の制作活動でも念頭としている

 

「人の模倣をせず自分独特の作風を確立すること」

 

を信念にした後進への指導や、屋外での表現活動

 

パフォーマンスなどを繰り返していきます。

 

こうして海外で活躍する美術家との交流や

 

1970年の大阪万博の際には

 

万博美術展へ出品も果たすなど

 

当時の日本の前衛美術に大きな影響を与えました。

 

ちなみに、具体美術協会は1972年に

 

吉原が亡くなって間もなく解散されています。

 

 

 

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