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吉原治良【画家】

1905年に生まれ、10代の頃に目にした

 

ゴッホやセザンヌの作品に強い影響を受け

 

絵画の道に没頭していきました。

 

他人の模倣を厳禁とし、自身の個性を

 

日々表現することを信念とした吉原の作品は

 

鮮やかな色遣いにシュルレアリスム的な

 

独特な雰囲気のあるものや

 

50代後半からは特に『円』をモチーフとしたものなど

 

様々なジャンルの作品が見られます。

 

 

 

ここではそんな吉原治良についてご紹介していきます。

 

吉原治良(よしはらじろう)

 

 

大阪で植物油問屋の家に生まれた吉原は

 

中学の頃から油彩画を始めました。

 

やがて印象派の画家たちの作品に感銘を受け

 

23歳の頃には自身の個展を開くまでの

 

才能を発揮しています。

 

その後吉原はフランスから帰った

 

画家の上山二郎と知り合うと

 

彼の影響を大きく受けながら

 

魚をモチーフとした作品を多く作成し

 

『魚の画家』としてその名を広めていきました。

 

 

そして20代前半の頃には、後の株式会社Jオイルミルズ

 

となる実家の家業の一端を担うようになります。

 

しかし、入社後も制作活動は続き

 

その後訪れた藤田嗣治との出会いは

 

吉原の絵画作品とその精神に大きく影響を与えました。

 

吉原の作品を見た藤田からの

 

吉原の作風にみられた周囲からの影響の大きさと

 

個性の薄さについての強い指摘に

 

吉原は大きな重要性を感じ、以後

 

他人のまねをしない、独自の作品を

 

生涯追及していくようになったのです。

 

 

 

この頃から吉原は徐々に抽象画をよく描くようになり

 

戦後は吉原製油の社長を務めながら

 

制作活動もこなしました。

 

50歳頃には関西の前衛作家たちと

 

『具体美術協会』を設立し、

 

自身の制作活動でも念頭としている

 

「人の模倣をせず自分独特の作風を確立すること」

 

を信念にした後進への指導や、屋外での表現活動

 

パフォーマンスなどを繰り返していきます。

 

こうして海外で活躍する美術家との交流や

 

1970年の大阪万博の際には

 

万博美術展へ出品も果たすなど

 

当時の日本の前衛美術に大きな影響を与えました。

 

ちなみに、具体美術協会は1972年に

 

吉原が亡くなって間もなく解散されています。

 

 

 

岡田謙三【画家】

1902年に生まれ、昭和末期まで活躍した画家です。

 

画家として活動するようになってからは

 

当初は具象画を描いていたものの

 

渡米をきっかけに抽象画を描くようになりました。

 

日本ならではの幽玄的な感性を取り入れた

 

画風を確立したと共に、その画風を

 

『ユーゲニズム(幽玄主義)』と称し提唱しました。

 

 

 

ここではその岡田謙三の生涯をご紹介していきます。

 

岡田謙三(おかだけんぞう)

 

 

横浜で生まれ育った岡田は、20歳の時に

 

東京美術学校西洋画科に入学しましたが

 

2年後には中退しフランスへ渡りました。

 

パリでは同じく画家の藤田嗣治や

 

海老原喜之助らと親交し

 

同地で当時活躍した作家たちの作品や芸術性に

 

強い感銘を受けたと言われています。

 

 

 

約3年後に日本に帰国した岡田は

 

1929年の二科展で初入選を果たし

 

35歳の時には二科展の会員となりました。

 

その後48歳の時にはアメリカへ渡り

 

当時抽象主義が発展していたニューヨークで

 

制作活動を開始します。

 

この期間に自身の独特の画風となる

 

ユーゲニズムを確立した岡田は、

 

有力な画商であったベティ・パーソンズの画廊で

 

初めての個展の開催を行いました。

 

この個展は大きく成功を治め、アメリカの地で

 

「岡田謙三」の名と「ユーゲニズム」の名を広めた

 

大きなきっかけとなっています。

 

また、アメリカ滞在中には

 

コロンビア絵画ビエンナーレや

 

ユネスコ絵画コンテストなど

 

多くの作品展に作品を出品し

 

優秀な賞を数多く受賞しました。

 

 

 

1960年には岡田はアメリカ市民権も獲得し

 

日本と往復しながら晩年まで

 

制作活動を続けています。

 

 

 

海老原喜之助【画家】

1904年に鹿児島に生まれ

 

1970年代まで洋画家として活躍しました。

 

パリに滞在中に制作した作品から

 

生み出された青色は「エビハラ・ブルー」と称され

 

海老原喜之助作品の大きな特徴となっています。

 

この色合いは製作時期によって異なり

 

明るい南国を思わせる青から

 

冬景色を思わせるような青まで、色調は様々です。

 

また、主題としてよく馬を好み

 

晩年までに馬を題材とした作品を多く描きました。

 

 

 

ここではその海老原喜之助について

 

ご紹介していきます。

 

海老原喜之助(えびはらきのすけ)

 

 

鹿児島で生まれ育った海老原は

 

中学卒業時にはすでに絵画に強い興味を持っており

 

上京するとフランス語を学びながら

 

川端画学校で絵画を学びました。

 

やがて19歳になるとフランス・パリへ渡り

 

現地で藤田嗣治に師事しています。

 

 

 

滞在中にはフランスから

 

日本の二科展に出品した作品が初めて入選

 

またフランスのサロン・ドトンヌでも

 

同じく入選を果たし、23歳の頃には

 

パブロ・ピカソなど多くの著名な画家と親交のあった

 

画商のアンリ・ピエール・ロシェとの

 

契約を果たしました。

 

その後もニューヨークでの個展で成功を治め

 

さらにはフランスでのサロン・ド・レスカリエに

 

招待出品したことで注目を浴びるなど

 

徐々にその名を広めていきます。

 

30歳の頃に日本に帰国してからも制作活動は続け

 

個展の開催、戦争画の制作などを行いながら

 

日本大学芸術学部の講師を

 

兼任するなどして活躍しました。

 

 

 

40代になる頃には熊本県に疎開し

 

終戦を迎えましたが、この期間

 

しばらく制作活動は行っていなかったようです。

 

活動を再開したのは海老原が46歳の頃に

 

開催された南日本文化賞のあたりから

 

とされており、ここでも賞を受賞し、

 

これを皮切りに国内の作品展への出品と

 

制作活動を再開しました。

 

やがてフランスへも断続的に渡るようになり

 

師と仰いだ藤田との親交も

 

本人が亡くなるまで続いています。

 

晩年まで創作活動を続けた海老原は

 

66歳で死去しましたが

 

その功績は子孫にまで伝えられ

 

現在では海老原の孫によって

 

オフィシャルギャラリーが経営されています。

 

 

 

村井正誠【画家】

主に昭和から平成にかけて画家として活躍しました。

 

日本で洋画を学んだ後

 

文化の先駆けともいえるフランスへ渡り新たな刺激を得

 

帰国後はモダンアート協会の創立者となっています。

 

村井正誠の抽象画作品は輪郭が単純化され

 

平面的でありながらも

 

しっかりと彩られた画面が特徴的で

 

独特の雰囲気が感じられます。

 

 

 

ここではその村井正誠の生涯をご紹介します。

 

村井正誠(むらいまさなり)

 

 

村井正誠は明治38年に岐阜県で生まれ

 

医師であった父の転勤に伴い

 

和歌山県で育っています。

 

やがて上京して医学校と美術学校を受験するも

 

両方不合格となってしまい

 

川端画学校に通ったのち

 

文化学院大学部の

 

美術科第一期生として入学しました。

 

学生時代には二科展への出品

 

そして後に、共にモダンアート協会の会員となった

 

矢橋六郎や山口薫と親交を深めます。

 

 

文化学院大学部を23歳で卒業すると

 

村井はそのままフランスへ渡り

 

アンデパンダン展に2回出品しました。

 

このフランス滞在中に抽象絵画に出会い

 

大きな刺激を受けた村井は

 

それまで敬慕していた

 

ルノワールからは時代が進んでいること

 

そしてイタリアや南仏への旅行で触れた

 

エトルスクやビザンチンの原始美術に強い興味を持ち

 

自身の作品にその風潮を活かしていくようになります。

 

 

 

昭和7年に帰国した後は、自身初めての個展や

 

矢橋六郎、山口薫らと共に

 

自由美術家協会を創始するなど

 

フランス滞在中に得た新たな美術潮流を

 

日本で広めていきました。

 

その後は文化学院大学の講師や

 

モダンアート協会の結成

 

武蔵野美術学校の西洋画講師から

 

名誉教授などを務めます。

 

また、その間にも自身の作品の制作活動を進め

 

現代日本美術展での最優秀賞や

 

東京国際版画ビエンナーレの

 

文部大臣賞を受賞しました。

 

 

 

平成11年に亡くなった村井正誠ですが

 

平成に入ってからも世田谷区文化功労者や中村彝賞

 

中日文化賞を受賞し、日本の近代絵画の中でも

 

抽象画を制作した先駆者として

 

高い評価を得ています。

 

 

 

青山義雄【画家】

主に1900年代に画家として活躍しました。

 

幼い頃から文学や絵に強い興味を持ち、

 

両親の反対を押し切り画家となりました。

 

若くしてフランスへ旅立ち絵画を学び

 

優しく鮮やかな色使いで描かれた油彩や水彩の作品は

 

現在でも国内外問わず人気があります。

 

 

ここではその青山義雄の生涯について、ご紹介します。

 

 

青山義雄(あおやまよしお)

 

青山義雄は明治27年に神奈川で生まれました。

 

幼少期は海軍に勤めた父の転勤に伴い

 

三重県や北海道で暮らしますが

 

幼い頃から好んでいた絵を学ぶ為に

 

14歳で学校を退学し画家を目指し始めます。

 

16歳の時には上京して画家の大下藤次郎や

 

永地秀太に師事しました。

 

のちに父の破産の報告を受け帰郷しましたが

 

肖像画を描くなど様々な仕事で溜めた資金で

 

27歳でフランスへ向かいます。

 

 

1920年代前半はパリで過ごし、デッサンを学びながら

 

日本人会の書記を務めるなどして生活しました。

 

フランスで生活を始めた年の秋にはサロン・ドトンヌ

 

という展覧会に自身の作品を2点出品しましたが

 

当時パリには日本人も含め

 

約500人もの画学生がいたといわれる中

 

青山義雄はいきなり入選を果たしたのです。

 

その翌年に出品した作品も入選し

 

青山義雄の名は広まっていきました。

 

その後、画家として創作活動を続ける中で体調を崩し

 

青山は31才で南フランスのカーニュに移住します。

 

南仏の豊かな自然は

 

青山の作品に大きな影響を与えており

 

鮮やかな色使いで描かれた青山の作品が

 

アンリ・マティスの目にとまると

 

『この男は色彩を持っている』と称賛された

 

といわれています。

 

これを機に青山はマティスと交流を深め

 

作品への助言を受けるなどし

 

自身の画法を磨いていきました。

 

やがて35歳の頃からは

 

毎年パリで個展を開くまでとなります。

 

 

41歳の頃には青山は

 

日本に一時帰国をしています。

 

フランスでの精工舎とされ国画会会員にもなりますが

 

再び南フランスへ戻ろうとした時には

 

第二次世界大戦の開戦によりそれが叶わず

 

不景気で作品もなかなか売れない中

 

17年間日本に滞在しました。

 

マティスの助力を得て58歳にして

 

南フランスに帰りましたが

 

数年後にマティスが亡くなってからは

 

スペインやイタリアなども巡り

 

自身の画風を突き詰めていきます。

 

やがて90歳を超えるまで青山は

 

フランスで創作活動を続け

 

昭和61年、日本に帰国しました。

 

 

帰国後も102歳で亡くなるまで

 

南フランスを中心とするヨーロッパで得た

 

明るく鮮やかな画風で

 

作品の制作を続けています。

 

 

 

木版画 【浮世絵~新版画】

木版画 【浮世絵~新版画】とは

 

木版印刷と木版画の歴史
木版画とは、彫刻の施された木の板を使って制作される凸版画の事をいいます。日本には印刷技術として、飛鳥時代に中国から伝来しました。日本では浮世絵が代表的ですが、ここではその歴史と、近代の新しい木版画である「新版画」について紹介します。

 

 

~木版画の登場~

現存する木版印刷物として世界最古とされるものは、770年に法隆寺等の仏教寺院に納められた「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」という仏教経典です。都が奈良から京都へと移った平安時代、仏教経典や仏の姿を多く作り出そうと、人の手による書き写しでなく木版印刷によって手摺りする「摺経供養(すりきょうくよう)」や「摺仏(すりぼとけ)」が登場し、日本にはじめて「木版印刷」そして「木版画」が誕生しました。
鎌倉・室町時代には経典だけでなく、漢文学を複製した木版印刷物が多く生み出され、これによって木版印刷は出版事業として産業化していきます。そして1467年に始まった応仁の乱によって、都に住む人々が技術と共に地方へと移り住んだことにより木版印刷は全国に広がりました。

 

~活版印刷と浮世絵の流行~

16世紀半ばになると、キリスト教の伝来や秀吉による国外出兵により「活版印刷」という技法が日本に伝えられました。これは木の板に画や字を彫る木版印刷に対し、金属に文字を彫ったものを組み合わせて版を作り出すもので、木版のように新たな印刷物を作るたびに版を作り直す必要がないため、当時の印刷市場には木版印刷に替わる技法として大きな影響をもたらしました。
その後江戸時代に入ると、出版文化は京都を始めとして大阪や江戸にも広まり、商業的な出版と共に本屋が誕生します。庶民の学び舎となった寺子屋や古本屋、貸本屋など印刷物の需要が高まり、文字のみでなく挿絵の入った瓦版や、文学書・医学書など書物の種類も増したことで、木版印刷、そして木版画が再び注目されることとなったのです。新たに文化の中心となった江戸では、浮世絵が爆発的に流行し、現代でも人気のある絵師喜多川歌麿や東洲斎写楽などが活躍し始めたのもこの頃となります。
その反面、活版印刷は幕府による鎖国と外来文化の禁止、また日本独特の「ひらがな・漢字・カタカナ」という広範囲な文字数や高い製作コストにより、日本に定着しないまま姿を消していきます。

 

~木版印刷の衰退と新版画の誕生~

江戸で大流行した木版画そして木版印刷でしたが、時代が明治へと移ると文明開化によって、西欧で進化を遂げた新しい活版印刷技術「輪転印刷」が日本へ持ち込まれ、ついに木版印刷は衰退の一途をたどり始めます。西欧仕込みの活版印刷技術は新聞を始めとした書物の印刷の大半を担い、木版印刷が担う規模は大幅に縮小していきました。
しかし、明治末期から大正時代にかけて、その技術は画家や作家たちによる新たな創作表現の手法として注目されました。木版印刷の芸術作品としての地位を確立しようとする「創作版画運動」が始まったのです。その後これまでのように、「絵師」と「彫師」、「摺師」などが木版画を分業して作成するのではなく、一連の流れを作家が全て行う「創作木版画(現代木版画)」が誕生しました。またその一方で版元たちは、木版印刷の復興実現を目指して、分業制の伝統木版画の形を踏襲しながら、日本画の描写を取り入れた「新版画」の立場を築き上げたのです。

 

~浮世絵のカラー印刷~

江戸時代に流行した浮世絵は、限られた時間で大量の印刷物を生産するために、表現方法をシンプルにすることで浮世絵独特の構図や色彩表現を作り上げていきました。版元では版を彫る彫師、色を塗る摺師、そして下絵を描く絵師がそれぞれ専門職として作業を分担しており、歌麿や北斎も絵師として大手版元のお抱えや独立して活躍していました。
浮世絵が「一枚絵」として親しまれたのは、17世紀中頃から18世紀初頭、それまで挿絵として描かれてきた木版画が、菱川師宣の『見返り美人』によって芸術作品としての地位を確立したことがきっかけと言われています。これによって浮世絵が広まると、18世紀初頭には輪郭線を墨一色で擦った白黒の「墨摺絵」や、紅を使った「紅絵」、丹の絵具や漆を使った「丹絵」、「漆絵」などの様々な方法で配色された浮世絵が作られました。
18世紀中頃には、輪郭だけでなく彩色部分を製版した「紅摺絵」が登場します。それまでの単色使いの版画に紅色や黄色、緑色などを加えたもので、ここから複数の色版を重ねる「多色摺り」の技術が発達していきます。
18世紀後半になると、今日浮世絵と聞いてまずイメージする多色摺り木版画の完成形、「錦絵」が大流行しました。一気に木版画の表現性が広まり、浮世絵だけでなくメンコや花札などの娯楽品から包装紙まで、多種多様な分野で栄えていきました。

 

~新版画~

上記でも紹介したとおり、新版画は明治時代に誕生しました。「新版画」とは明治30年前後から昭和にかけて作成された木版画のことを指します。国内で衰退していく浮世絵版画の状況を案じた浮世絵商 渡邊庄三郎が版元となり、美しく緻密な完成度の高い作品が多く生まれました。日本画特有の墨の掠れや滲み、加えて写実性や豊かな色彩を表現した新版画は、海外でも流行しました。

 

木村武山―仏画の名手―

木村武山とは
―日本画の近代化に尽力した日本画家―

茨城県笠間市出身の木村武山は、豊かな色彩感覚と優れた技法を生かして歴史画、花鳥画や仏教画を描いた日本画家です。

 

また、明治から昭和の初めにかけて岡倉天心の陶酔を受け、横山大観、下村観山、菱田春草らと共に日本画の近代化や日本美術院再興に尽力した日本画家でもあるのです。

 

・優れた技法と豊かな色彩感覚を備えた武山

武山は旧笠間藩士であり現在の常陽銀行の設立者である木村信義の長男として、現在の茨城県笠間市に1876年に生まれました。

 

2歳頃になると武山はすでに南画家の桜井華陵に師事し、12歳頃には武山の号を用いていました。

 

上京してから開成中学校に入学して川端章に師事し、1891年に東京美術学校に入学し岡倉天心の陶酔を受け、さらに教授であった下村観山の影響も強く受けました。

 

卒業後は日本画研究科に進み、1898年には日本美術院にも参加して美術院を支える中心的な日本画家になっていきました。

 

1906年になると天心の薦めもあり、横山大観、下村観山、菱田春草たちと北茨城にある五浦に移住し、創作活動に没頭しました。

 

五浦で描かれた作品の「阿房劫火」は第一回文展、「孔雀明王」は第四回文展に入賞し、日本画家の地位を築きました。

 

1914年、日本美術院の再興に参加して美術院発展のために貢献し、豊かな色遣いで描かれた春を思わせる屏風絵、「小春」を再興第一回展出展しました。

 

武山の画風は、花鳥画や仏教画の中に優れた色彩感覚や写実的な描写技法を生かして描いているところです。

 

大正初期の武山の作品には琳派の技法も取り入れており歴史画が多かったですが、20代後半になると次第に花鳥画が中心となり、晩年は仏教画を多く描くようになりました。

 

晩年の武山は仏教画を多く描くようになり、高野山金峰寺金堂壁画を完成させています。

 

1937年、脳内出血で倒れて右手が利かなくなった武山は、郷里の笠間で静養しながら左手で絵筆をにぎり創作活動をしていたので「左武山」とも呼ばれていましたが、太平洋戦争中の1942年に武山は喘息により東京で亡くなり、67歳の生涯を閉じました。

 

・評価されにくかった武山の作品

武山は日本画の近代化に向けて岡倉天心の一翼を担った画家でしたが、武山の作品は観山や大観に比べて評価されにくかったです。

 

武山の持っている多彩で幅広い芸術性が、逆に武山の特徴を捉えにくくしてしまったのではないのでしょうか。

 

茨城県笠間市の笠間稲荷近くの造り酒屋さんの蔵には、「木村武山記念館」があり、2階建ての蔵が記念館となっています。

 

館内には武山の掛け軸の作品などが展示されているので美術館とは異なり間近で鑑賞することができますが、大観や観山と同じように武山の作品が“なぜ”正当に評価されなかったのか、その原因を見つけることは至難のように思われます。

 

(まとめ)

武山は横山大観、下村観山、菱田春草らと共に明治から昭和初期にかけての日本画の近代化や日本美術院再興に貢献しました。

 

武山は作品を通して、優れた色彩感覚や写実的な描写力のある芸術性の高い美しさだけでなく、希望や励ましを我々に与えてくれる画家ではないでしょうか。

 

 

戸田忠敬―水戸藩尊王の志士―

戸田忠敬とは
―水戸藩の藩政改革に尽力した尊王の志士―

戸田忠敬(1804年~1855年)は、第9代水戸藩主・徳川斉昭の股肱之臣として信頼され、水戸藩の藩政改革に尽力した家老であり、国政にも尽くした尊王の志士でした。

 

藩政改革に取組む時に家老職に就いた忠敬は、藩主・斉昭より「忠太夫」の名を賜りました。

 

忠敬は、1855年(安政2年)に江戸で起きた安政の大地震によって、志半ばで命を落とした藩主・斉昭の輔翼です。

 

・「水戸の両田」と「水戸の三田」と呼ばれた俊傑の一人

忠敬は松本藩主・戸田氏の末裔で、水戸藩士戸田家の第7代御当主にあたります。

 

忠敬は、藤田東湖と共に学識と尊王の志が備わった指導者として「水戸の両田」と言われ、さらに藩主・斉昭の補佐役として藩政改革に一緒に加わった武田耕雲斎も加えて「水戸の三田」とも言われていました。

 

・藩主斉昭の輔翼として水戸藩の藩政改革に活躍

忠敬は、藩主・徳川斉昭を補佐して水戸藩改革に取り組み、海防参与として国政にも貢献しました。

 

1840年(天保11年)2月、忠敬は学校造営懸として弘道館の設立に尽力を尽くしました。

 

半年後の8月には、大寄合上座用達、10月になると学校造営懸として弘道館の学校造営懸総司など水戸藩の要職に就きました。

 

他にも藩主・斉昭が取り組んだ藩政改革の重鎮の一人として、領土内検地、海防準備、学校創設、寺社改革等にも藩政改革に貢献しましたが、斉昭が幕府から幕疑を受けると忠敬も東湖らと一緒に免職となり、蟄居謹慎を命ぜられてしまいました。

 

忠敬は、水戸藩の藩政改革に尽力を尽くしただけでなく、薩摩藩の藩政改革にも大きな影響を与えました。

 

東湖を通じて薩摩藩の西郷隆盛と親交を持つことができた忠敬によって隆盛りは忠敬から幕府の内情を知ることができたので、薩摩藩の藩政改革の必要性を痛切に感じることができました。

 

・安政の大地震による忠敬の死

1855年(安政2年)、江戸で起きた安政の大地震によって、小石川にある水戸藩邸で東湖と一緒にこの世を去ってしまいましたが、孝明天皇は忠敬の死を嘆き、東湖と忠敬を尊敬していた西郷隆盛も肩を落とす結果を招いてしまいました。

 

同時に忠敬の死は藩主・斉昭と水戸藩政改革にも大きな打撃を与えました。

 

藩主・斉昭は水戸藩の藩政改革を行う上で東湖の方針に加え、忠敬の意見を取り入れて藩政改革に取り組んでいたため忠敬と東湖の同時の亡により、斉昭の取り組む藩政改革は、時代に乗り遅れた方針に固執するようになり藩の統制力の衰退の一途を辿る結果となりました。

 

忠敬がこの世を去ってから水戸藩の藩政改革に対する忠敬の志は実弟の水戸藩家老安島帯刀や嫡男で同じく家老の戸田銀次郎に引き継がれていきました。

 

1891年(明治24年)、贈正四位となりました。

 

(まとめ)

忠敬が藩主・斉昭を補佐して取り組んだ水戸藩の藩政改革は、後に諸藩の藩政改革や幕政改革の手本とされました。

 

水戸藩の藩政改革に尽くした忠敬でしたが、安政の大地震による忠敬の死は、水戸藩の藩論や藩政思想の統括力を一層困難にされていったのではないでしょうか。

 

 

酒井三良~福島県の日本画家

酒井三良とは

 

1897年明治30年福島県大沼郡に生まれました。

 

1915年(大正4年)、18歳で同郷である「坂内青嵐」に師事し、本格的に日本画を学びはじめました。

 

大正8年には「土田麦僊」らが結成した「国学創作協会」(10年程で解散)に入選することとなります。

 

同年に第2回日展において「雪に埋もれつつ正月がゆく」が初入選いたします。(色彩がとても豊かでファンタジーな雰囲気も感じられ暖かみのある初期の代表作品)

 

この前後の頃より「河童の芋銭」で有名な「小川芋銭」、文化勲章も受賞することとなる「奥村土牛」らとの交流も持つようになります。

 

大正10年にはその「小川芋銭」のすすめにより「災神を焼く残雪の夜」を院展に出品します。(高々と火柱があがる山村の行事をテーマにした、初期の画風の代表作こちらもアニメーションのような作品中の人々が動き出しそうな躍動感を感じる作品)こちらの作品は入選をはたします。

 

初期の「酒井三良」の作品は、故郷の会津の山村の風景を描いたものがほとんどで、画風は変化していきますが、そのスタイルは生涯変わることはありませんでした。

 

以降も院展に出品を続け大正13年には日本美術院の同人になります。

 

「酒井三良」は、数多くの作品を描いています。

 

画風は歳を重ねるごとに変化していき水墨調の作品も多く見られます。

 

これらは少し滲んだような描写が特徴であり、水墨調でありながらファンタジーのような暖かみを感じられる「酒井三良」ならではの画風です。

 

1962年、第47回の院展に「かまくら」を出品し、この作品で「文部大臣賞」を受賞します。

 

前年には日本美術院の監事になっています。

 

「小川芋銭」と同様に、田園風景や山村の風景を描く「酒井三良」は、都会への変化を遂げる東京を離れ茨城県や、故郷福島県での活動を主体としそれらをテーマとした作品を描いていきます。

 

昭和43年、第53回の院展に「水辺夏日」を出品しますがこれが最後の出品となりました。

 

昭和446月 72歳で没します。

 

作品のいくつかは福島県立美術館や茨城県近代美術館などに収蔵されています。

 

 

小林五浪~福島県の日本画家

小林五浪とは

 

小林五浪は、大正14年(1925年)福島県会津坂下町に農家の子どもとして生まれます。

 

家族は幼い頃より小林五浪に就農を期待していましたが、小林五浪本人はそれに反抗をして画家になることを志し、日々作画に取り組んでいました。

 

昭和26年には第5回の福島県展に「村娘」を出品します。

この作品は福島県・県知事賞を受賞します。

 

画家としての活動をしながら、翌年昭和27年には福島県河沼郡金上中学校に教員として迎え入れられます。

 

この学校では21年もの間教壇に立つこととなり、二足の草鞋で画家としての活動を行います。

 

小林五浪はこの前後に「福王寺法林」に師事します。

 

「福王寺法林」は後に日本芸術院会員、勲三等瑞宝章受章、文化勲章などを受賞する山形県出身の画家です。

 

この間にも「福島県展」では福島県県知事賞を6回、1957年の院展の入選以後39回の入選など多くの作品を創作しています。

 

これらの活躍が認められて昭和34年に日本院院友に推挙されます。

 

小林五浪は日本画と水墨画で多くの作品を残しています。

 

日本画では「アイヌシリーズ」や「シルクロードシリーズ」を多く残しています。

 

アイヌシリーズの代表作は「アイヌ老夫婦」「凍る月」などがあります。

 

水墨画では「奥の細道」「良寛」「一茶」「利休」などをテーマにした作品を好んで手がけ、「奥の細道」シリーズは松尾芭蕉が詠んだ句をテーマにして、その情景を懐かしい田園風景と共に水墨画として描いた「小林五浪」の代表シリーズです。

 

現在でも多くの作品が取引されており、高い評価を受けています。

 

1973年に教員を退職以後も作品の発表は続け数多くの賞を受賞します。

 

1974年には院展春季展賞、1977年には院展特待、1978年院展奨励賞、1979年院展奨励賞など枚挙に暇がありません。

 

美術界における功績が認められて、1981年には紺綬褒章を授かります。

 

平成13年の3月、移住先の神奈川県海老名市にて79歳で没します。

 

小林五浪の「後進たちの灯火となる」「文化振興発展に寄与して欲しい」という思いのもと絵画と土地、建物を故郷である福島県の会津板下町に寄付し、現在では「五郎美術記念館」として運営されています。

 

また子どもである「小林希光」も日本画家として活躍されています。

 

 

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