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木版画 【浮世絵~新版画】

木版画 【浮世絵~新版画】とは

 

木版印刷と木版画の歴史
木版画とは、彫刻の施された木の板を使って制作される凸版画の事をいいます。日本には印刷技術として、飛鳥時代に中国から伝来しました。日本では浮世絵が代表的ですが、ここではその歴史と、近代の新しい木版画である「新版画」について紹介します。

 

 

~木版画の登場~

現存する木版印刷物として世界最古とされるものは、770年に法隆寺等の仏教寺院に納められた「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」という仏教経典です。都が奈良から京都へと移った平安時代、仏教経典や仏の姿を多く作り出そうと、人の手による書き写しでなく木版印刷によって手摺りする「摺経供養(すりきょうくよう)」や「摺仏(すりぼとけ)」が登場し、日本にはじめて「木版印刷」そして「木版画」が誕生しました。
鎌倉・室町時代には経典だけでなく、漢文学を複製した木版印刷物が多く生み出され、これによって木版印刷は出版事業として産業化していきます。そして1467年に始まった応仁の乱によって、都に住む人々が技術と共に地方へと移り住んだことにより木版印刷は全国に広がりました。

 

~活版印刷と浮世絵の流行~

16世紀半ばになると、キリスト教の伝来や秀吉による国外出兵により「活版印刷」という技法が日本に伝えられました。これは木の板に画や字を彫る木版印刷に対し、金属に文字を彫ったものを組み合わせて版を作り出すもので、木版のように新たな印刷物を作るたびに版を作り直す必要がないため、当時の印刷市場には木版印刷に替わる技法として大きな影響をもたらしました。
その後江戸時代に入ると、出版文化は京都を始めとして大阪や江戸にも広まり、商業的な出版と共に本屋が誕生します。庶民の学び舎となった寺子屋や古本屋、貸本屋など印刷物の需要が高まり、文字のみでなく挿絵の入った瓦版や、文学書・医学書など書物の種類も増したことで、木版印刷、そして木版画が再び注目されることとなったのです。新たに文化の中心となった江戸では、浮世絵が爆発的に流行し、現代でも人気のある絵師喜多川歌麿や東洲斎写楽などが活躍し始めたのもこの頃となります。
その反面、活版印刷は幕府による鎖国と外来文化の禁止、また日本独特の「ひらがな・漢字・カタカナ」という広範囲な文字数や高い製作コストにより、日本に定着しないまま姿を消していきます。

 

~木版印刷の衰退と新版画の誕生~

江戸で大流行した木版画そして木版印刷でしたが、時代が明治へと移ると文明開化によって、西欧で進化を遂げた新しい活版印刷技術「輪転印刷」が日本へ持ち込まれ、ついに木版印刷は衰退の一途をたどり始めます。西欧仕込みの活版印刷技術は新聞を始めとした書物の印刷の大半を担い、木版印刷が担う規模は大幅に縮小していきました。
しかし、明治末期から大正時代にかけて、その技術は画家や作家たちによる新たな創作表現の手法として注目されました。木版印刷の芸術作品としての地位を確立しようとする「創作版画運動」が始まったのです。その後これまでのように、「絵師」と「彫師」、「摺師」などが木版画を分業して作成するのではなく、一連の流れを作家が全て行う「創作木版画(現代木版画)」が誕生しました。またその一方で版元たちは、木版印刷の復興実現を目指して、分業制の伝統木版画の形を踏襲しながら、日本画の描写を取り入れた「新版画」の立場を築き上げたのです。

 

~浮世絵のカラー印刷~

江戸時代に流行した浮世絵は、限られた時間で大量の印刷物を生産するために、表現方法をシンプルにすることで浮世絵独特の構図や色彩表現を作り上げていきました。版元では版を彫る彫師、色を塗る摺師、そして下絵を描く絵師がそれぞれ専門職として作業を分担しており、歌麿や北斎も絵師として大手版元のお抱えや独立して活躍していました。
浮世絵が「一枚絵」として親しまれたのは、17世紀中頃から18世紀初頭、それまで挿絵として描かれてきた木版画が、菱川師宣の『見返り美人』によって芸術作品としての地位を確立したことがきっかけと言われています。これによって浮世絵が広まると、18世紀初頭には輪郭線を墨一色で擦った白黒の「墨摺絵」や、紅を使った「紅絵」、丹の絵具や漆を使った「丹絵」、「漆絵」などの様々な方法で配色された浮世絵が作られました。
18世紀中頃には、輪郭だけでなく彩色部分を製版した「紅摺絵」が登場します。それまでの単色使いの版画に紅色や黄色、緑色などを加えたもので、ここから複数の色版を重ねる「多色摺り」の技術が発達していきます。
18世紀後半になると、今日浮世絵と聞いてまずイメージする多色摺り木版画の完成形、「錦絵」が大流行しました。一気に木版画の表現性が広まり、浮世絵だけでなくメンコや花札などの娯楽品から包装紙まで、多種多様な分野で栄えていきました。

 

~新版画~

上記でも紹介したとおり、新版画は明治時代に誕生しました。「新版画」とは明治30年前後から昭和にかけて作成された木版画のことを指します。国内で衰退していく浮世絵版画の状況を案じた浮世絵商 渡邊庄三郎が版元となり、美しく緻密な完成度の高い作品が多く生まれました。日本画特有の墨の掠れや滲み、加えて写実性や豊かな色彩を表現した新版画は、海外でも流行しました。

 

木村武山―仏画の名手―

木村武山とは
―日本画の近代化に尽力した日本画家―

茨城県笠間市出身の木村武山は、豊かな色彩感覚と優れた技法を生かして歴史画、花鳥画や仏教画を描いた日本画家です。

 

また、明治から昭和の初めにかけて岡倉天心の陶酔を受け、横山大観、下村観山、菱田春草らと共に日本画の近代化や日本美術院再興に尽力した日本画家でもあるのです。

 

・優れた技法と豊かな色彩感覚を備えた武山

武山は旧笠間藩士であり現在の常陽銀行の設立者である木村信義の長男として、現在の茨城県笠間市に1876年に生まれました。

 

2歳頃になると武山はすでに南画家の桜井華陵に師事し、12歳頃には武山の号を用いていました。

 

上京してから開成中学校に入学して川端章に師事し、1891年に東京美術学校に入学し岡倉天心の陶酔を受け、さらに教授であった下村観山の影響も強く受けました。

 

卒業後は日本画研究科に進み、1898年には日本美術院にも参加して美術院を支える中心的な日本画家になっていきました。

 

1906年になると天心の薦めもあり、横山大観、下村観山、菱田春草たちと北茨城にある五浦に移住し、創作活動に没頭しました。

 

五浦で描かれた作品の「阿房劫火」は第一回文展、「孔雀明王」は第四回文展に入賞し、日本画家の地位を築きました。

 

1914年、日本美術院の再興に参加して美術院発展のために貢献し、豊かな色遣いで描かれた春を思わせる屏風絵、「小春」を再興第一回展出展しました。

 

武山の画風は、花鳥画や仏教画の中に優れた色彩感覚や写実的な描写技法を生かして描いているところです。

 

大正初期の武山の作品には琳派の技法も取り入れており歴史画が多かったですが、20代後半になると次第に花鳥画が中心となり、晩年は仏教画を多く描くようになりました。

 

晩年の武山は仏教画を多く描くようになり、高野山金峰寺金堂壁画を完成させています。

 

1937年、脳内出血で倒れて右手が利かなくなった武山は、郷里の笠間で静養しながら左手で絵筆をにぎり創作活動をしていたので「左武山」とも呼ばれていましたが、太平洋戦争中の1942年に武山は喘息により東京で亡くなり、67歳の生涯を閉じました。

 

・評価されにくかった武山の作品

武山は日本画の近代化に向けて岡倉天心の一翼を担った画家でしたが、武山の作品は観山や大観に比べて評価されにくかったです。

 

武山の持っている多彩で幅広い芸術性が、逆に武山の特徴を捉えにくくしてしまったのではないのでしょうか。

 

茨城県笠間市の笠間稲荷近くの造り酒屋さんの蔵には、「木村武山記念館」があり、2階建ての蔵が記念館となっています。

 

館内には武山の掛け軸の作品などが展示されているので美術館とは異なり間近で鑑賞することができますが、大観や観山と同じように武山の作品が“なぜ”正当に評価されなかったのか、その原因を見つけることは至難のように思われます。

 

(まとめ)

武山は横山大観、下村観山、菱田春草らと共に明治から昭和初期にかけての日本画の近代化や日本美術院再興に貢献しました。

 

武山は作品を通して、優れた色彩感覚や写実的な描写力のある芸術性の高い美しさだけでなく、希望や励ましを我々に与えてくれる画家ではないでしょうか。

 

 

戸田忠敬―水戸藩尊王の志士―

戸田忠敬とは
―水戸藩の藩政改革に尽力した尊王の志士―

戸田忠敬(1804年~1855年)は、第9代水戸藩主・徳川斉昭の股肱之臣として信頼され、水戸藩の藩政改革に尽力した家老であり、国政にも尽くした尊王の志士でした。

 

藩政改革に取組む時に家老職に就いた忠敬は、藩主・斉昭より「忠太夫」の名を賜りました。

 

忠敬は、1855年(安政2年)に江戸で起きた安政の大地震によって、志半ばで命を落とした藩主・斉昭の輔翼です。

 

・「水戸の両田」と「水戸の三田」と呼ばれた俊傑の一人

忠敬は松本藩主・戸田氏の末裔で、水戸藩士戸田家の第7代御当主にあたります。

 

忠敬は、藤田東湖と共に学識と尊王の志が備わった指導者として「水戸の両田」と言われ、さらに藩主・斉昭の補佐役として藩政改革に一緒に加わった武田耕雲斎も加えて「水戸の三田」とも言われていました。

 

・藩主斉昭の輔翼として水戸藩の藩政改革に活躍

忠敬は、藩主・徳川斉昭を補佐して水戸藩改革に取り組み、海防参与として国政にも貢献しました。

 

1840年(天保11年)2月、忠敬は学校造営懸として弘道館の設立に尽力を尽くしました。

 

半年後の8月には、大寄合上座用達、10月になると学校造営懸として弘道館の学校造営懸総司など水戸藩の要職に就きました。

 

他にも藩主・斉昭が取り組んだ藩政改革の重鎮の一人として、領土内検地、海防準備、学校創設、寺社改革等にも藩政改革に貢献しましたが、斉昭が幕府から幕疑を受けると忠敬も東湖らと一緒に免職となり、蟄居謹慎を命ぜられてしまいました。

 

忠敬は、水戸藩の藩政改革に尽力を尽くしただけでなく、薩摩藩の藩政改革にも大きな影響を与えました。

 

東湖を通じて薩摩藩の西郷隆盛と親交を持つことができた忠敬によって隆盛りは忠敬から幕府の内情を知ることができたので、薩摩藩の藩政改革の必要性を痛切に感じることができました。

 

・安政の大地震による忠敬の死

1855年(安政2年)、江戸で起きた安政の大地震によって、小石川にある水戸藩邸で東湖と一緒にこの世を去ってしまいましたが、孝明天皇は忠敬の死を嘆き、東湖と忠敬を尊敬していた西郷隆盛も肩を落とす結果を招いてしまいました。

 

同時に忠敬の死は藩主・斉昭と水戸藩政改革にも大きな打撃を与えました。

 

藩主・斉昭は水戸藩の藩政改革を行う上で東湖の方針に加え、忠敬の意見を取り入れて藩政改革に取り組んでいたため忠敬と東湖の同時の亡により、斉昭の取り組む藩政改革は、時代に乗り遅れた方針に固執するようになり藩の統制力の衰退の一途を辿る結果となりました。

 

忠敬がこの世を去ってから水戸藩の藩政改革に対する忠敬の志は実弟の水戸藩家老安島帯刀や嫡男で同じく家老の戸田銀次郎に引き継がれていきました。

 

1891年(明治24年)、贈正四位となりました。

 

(まとめ)

忠敬が藩主・斉昭を補佐して取り組んだ水戸藩の藩政改革は、後に諸藩の藩政改革や幕政改革の手本とされました。

 

水戸藩の藩政改革に尽くした忠敬でしたが、安政の大地震による忠敬の死は、水戸藩の藩論や藩政思想の統括力を一層困難にされていったのではないでしょうか。

 

 

酒井三良~福島県の日本画家

酒井三良とは

 

1897年明治30年福島県大沼郡に生まれました。

 

1915年(大正4年)、18歳で同郷である「坂内青嵐」に師事し、本格的に日本画を学びはじめました。

 

大正8年には「土田麦僊」らが結成した「国学創作協会」(10年程で解散)に入選することとなります。

 

同年に第2回日展において「雪に埋もれつつ正月がゆく」が初入選いたします。(色彩がとても豊かでファンタジーな雰囲気も感じられ暖かみのある初期の代表作品)

 

この前後の頃より「河童の芋銭」で有名な「小川芋銭」、文化勲章も受賞することとなる「奥村土牛」らとの交流も持つようになります。

 

大正10年にはその「小川芋銭」のすすめにより「災神を焼く残雪の夜」を院展に出品します。(高々と火柱があがる山村の行事をテーマにした、初期の画風の代表作こちらもアニメーションのような作品中の人々が動き出しそうな躍動感を感じる作品)こちらの作品は入選をはたします。

 

初期の「酒井三良」の作品は、故郷の会津の山村の風景を描いたものがほとんどで、画風は変化していきますが、そのスタイルは生涯変わることはありませんでした。

 

以降も院展に出品を続け大正13年には日本美術院の同人になります。

 

「酒井三良」は、数多くの作品を描いています。

 

画風は歳を重ねるごとに変化していき水墨調の作品も多く見られます。

 

これらは少し滲んだような描写が特徴であり、水墨調でありながらファンタジーのような暖かみを感じられる「酒井三良」ならではの画風です。

 

1962年、第47回の院展に「かまくら」を出品し、この作品で「文部大臣賞」を受賞します。

 

前年には日本美術院の監事になっています。

 

「小川芋銭」と同様に、田園風景や山村の風景を描く「酒井三良」は、都会への変化を遂げる東京を離れ茨城県や、故郷福島県での活動を主体としそれらをテーマとした作品を描いていきます。

 

昭和43年、第53回の院展に「水辺夏日」を出品しますがこれが最後の出品となりました。

 

昭和446月 72歳で没します。

 

作品のいくつかは福島県立美術館や茨城県近代美術館などに収蔵されています。

 

 

小林五浪~福島県の日本画家

小林五浪とは

 

小林五浪は、大正14年(1925年)福島県会津坂下町に農家の子どもとして生まれます。

 

家族は幼い頃より小林五浪に就農を期待していましたが、小林五浪本人はそれに反抗をして画家になることを志し、日々作画に取り組んでいました。

 

昭和26年には第5回の福島県展に「村娘」を出品します。

この作品は福島県・県知事賞を受賞します。

 

画家としての活動をしながら、翌年昭和27年には福島県河沼郡金上中学校に教員として迎え入れられます。

 

この学校では21年もの間教壇に立つこととなり、二足の草鞋で画家としての活動を行います。

 

小林五浪はこの前後に「福王寺法林」に師事します。

 

「福王寺法林」は後に日本芸術院会員、勲三等瑞宝章受章、文化勲章などを受賞する山形県出身の画家です。

 

この間にも「福島県展」では福島県県知事賞を6回、1957年の院展の入選以後39回の入選など多くの作品を創作しています。

 

これらの活躍が認められて昭和34年に日本院院友に推挙されます。

 

小林五浪は日本画と水墨画で多くの作品を残しています。

 

日本画では「アイヌシリーズ」や「シルクロードシリーズ」を多く残しています。

 

アイヌシリーズの代表作は「アイヌ老夫婦」「凍る月」などがあります。

 

水墨画では「奥の細道」「良寛」「一茶」「利休」などをテーマにした作品を好んで手がけ、「奥の細道」シリーズは松尾芭蕉が詠んだ句をテーマにして、その情景を懐かしい田園風景と共に水墨画として描いた「小林五浪」の代表シリーズです。

 

現在でも多くの作品が取引されており、高い評価を受けています。

 

1973年に教員を退職以後も作品の発表は続け数多くの賞を受賞します。

 

1974年には院展春季展賞、1977年には院展特待、1978年院展奨励賞、1979年院展奨励賞など枚挙に暇がありません。

 

美術界における功績が認められて、1981年には紺綬褒章を授かります。

 

平成13年の3月、移住先の神奈川県海老名市にて79歳で没します。

 

小林五浪の「後進たちの灯火となる」「文化振興発展に寄与して欲しい」という思いのもと絵画と土地、建物を故郷である福島県の会津板下町に寄付し、現在では「五郎美術記念館」として運営されています。

 

また子どもである「小林希光」も日本画家として活躍されています。

 

 

大山忠作~福島県の日本画家

大山忠作とは

 

1922年5月、福島県安達郡二本松町(現二本松市)の染物業を営む家庭に23女の第3子として生まれました。

 

安達太良山や阿武隈川などの雄大な自然に囲まれ幼少期を過ごし、地元の高等小学校を卒業後に上京、東京美術学校(現東京藝術大学)に入学しました。

 

東京美術大学で日本画を選考しますが、第二次世界大戦による学徒出陣の命により、繰り上げての卒業となり戦地へ赴くこととなります。

 

航空部隊の隊員として転戦しますが、終戦を迎え1946年に復員することができます。

 

復員後、第2回日展に美術学校の先生を描いた「O先生」を初出品し見事入選を果たします。

 

1947年には「山口蓬春」に師事します。

 

また「一采社」に参加し「高山辰雄」らとも行動を共にします。

 

この頃法隆寺の法隆寺の壁画の模写事業に橋本明治班の一員として参加します。

 

これは後の1967年頃の法隆寺金堂壁画再現模写への参加にも繋がることとなりました。

 

大山忠作は生涯の中で多くの作品を日展で発表しています。

 

49年「群青」(第5回)50年「室内」(第6回)52年「池畔に立つ」(第8回)53年「浜の男」(第9回)55年「海浜」(第11回)その内52年出品の「池畔に立つ」が特選・白寿賞・朝倉賞を受賞し、55年出品の「海浜」も特選ならびに白寿賞を受賞することとなります。

 

それらの功績が認められ、61年には日展会員になります。

 

大山忠作は後に日展の理事長・会長を勤め現代日本画の普及に貢献します。

 

68年「岡潔先生像」では文部大臣賞も受賞します。

 

72年には大山忠作の代表作「五百羅漢」を出品し、翌年に日本芸術院賞を受賞します。

 

78年には成田山新勝寺光輪閣襖絵「日月春秋」を完成させました。

 

これは千葉県にある新勝寺の襖絵で、総枚数が「早暁の日輪」「枝垂れ桜」「楓」「幽玄の月」合わせて28面にも及んだ大作でした。

 

現在も新勝寺に現存すますがなかなか見ることのできない作品です。

 

84年には同じく新勝寺の襖絵として「杉・松・竹」22面を完成させ、これらに聖徳太子堂の壁画も含めた作品は大山忠作の代表的な仕事として上げられています。

 

晩年は日展の理事長、会長として現代美術の発展を支え1999年には文化功労賞を受賞します。

 

2009年多臓器不全の為死去。86歳でした。

 

大山忠作は鯉の作品を得意とし現在も美術市場での人気が高い画家であります。

 

 

小川芋銭―「河童の芋銭」―

小川芋銭とは

―押絵画家から日本画家になった「河童の芋銭」―

小川芋銭は、現在の茨城県牛久市城中町で農業をしながら新聞や雑誌の押絵画や漫画を描きながら日本画家になり、中でもかっぱの絵を多く描いたので「河童の芋銭」と呼ばれました。

 

・45歳位から日本画家になった芋銭

芋銭は常陸国牛久藩の大目付である小石川右衛門賢勝の長男として、1868年に現在の東京都港区赤坂溜池近くにあった牛久藩邸内で生まれましたが、3年後に廃藩置県により一家は牛久沼の湖畔に移り、農家となりました。

 

その後、芋銭は上京し、13歳の時には本多綿吉郎に師事して洋画を学び、中国絵画や南画へも興味を持ち、次第に独自の画風を身につけていきました。

 

1883年、芋銭は実家の農業を継ぐために牛久に戻り、現地で発刊されている「いはらき」新聞や「週刊平民新聞」、文芸誌などにも押絵や漫画を描き、1888年に「朝野新聞」の客員となりました。

 

当時は無名の芋銭でしたが1896年に茨城日報(現在の茨城新聞)に投稿した漫画が編集長の渡辺鼓堂の目に留まり、新聞に掲載され、世間に知られるきっかけとなりました。

 

芋銭は押絵や漫画の初画集「草汁漫画」を1908年に刊行したり、俳誌「ホトトギス」の押絵や表紙を描いたり、大阪や東京の三越デパートで漫画展を開きましたが満足していませんでした。

 

珊瑚会展に出品した「肉案」が横山大観に認められて日本美術院同人に推挙されました。

 

また、芋銭は「牛里」の号を用いて俳人としても活動し、野口雨情、山口暮烏や長塚節などとも交流がありました。

 

1923年には茨城美術展の顧問になり、晩年の1935年には帝国美術院参与となりましたが、1938年12月に70歳で牛久の自宅で亡くなりました。

 

・「河童の芋銭」と呼ばれた芋銭の絵画

牛久沼の湖畔で人生の大半を過ごした芋銭の絵画には、湖畔周辺の豊かな自然や農村の風景を主題にした絵が多く、水墨淡彩で俳画の雰囲気もあります。

 

芋銭は特に河童に興味があったので多くの河童の絵を描き、「河童の銭芋が芋銭の河童」と呼ばれるようになりました。

 

また、芋銭は「魑魅魍魎」や「水魅山妖」の妖怪の世界観を独自の画風で描きました。

 

芋銭は生まれつき体が弱く幻覚などにも悩まされていたので描かれた「魑魅魍魎」や「水魅山妖」の妖怪たちの世界観は、芋銭には見えていたのではないのでしょうか。

 

さらに松尾芭蕉にも憧れて各地を旅しながら農村風景や山水画なども描いた芋銭は、「仙境の河童」や「俗中の仙人」とも呼ばれていました。

 

一方、芋銭の作品の多くは贋作だったので、公的機関による芋銭の作品購入に際しては、しばしば公金による購入の正当性などで議論になることもあります。

 

(まとめ)

芋銭が農業の傍ら新聞や雑誌の押絵や漫画の掲載から日本画家になれた背景には、妻「こう」の内助の功が大いにあります。

 

雅号である「芋銭」は、芋銭の絵でお芋が買えるくらいの銭になれば良いという無欲な芋銭の思いからつけられました。温厚で優しさに溢れ多くの人々から愛された芋銭の日本画は、芋銭が雅号に対する思いと同じように醜い欲を払拭して、気持ちを無欲にさせてくれる不思議な力を持っているのではないでしょうか。

 

 

河鍋暁斎―幕末明治期の浮世絵の画鬼―

河鍋暁斎とは
―幕末から明治を生き抜いた浮世絵の画鬼―

 

河鍋暁斎は狩野派だけに拘らず他の流派や画法を積極的に取り入れ、激動の幕末から明治時代を生き抜いた浮世絵師ですが、狩野派の流れも汲んだ絵師でもあるのです。

 

暁斎の作品には戯画や風刺画の作品も多く写生力や筆力のレベルも高いので今日では、海外でも高く評価されている浮世絵の画鬼です。

 

・わずか7歳で浮世絵の修業に入った暁斎

暁斎は水戸藩士・河鍋喜右衛門の次男として、現在の茨城県古川市中央町で1831年に生まれました。

 

翌年には一家揃って江戸に移り、1889年に亡くなるまで江戸で絵師として活躍しました。

 

3歳ですでに蛙の絵を描いた暁斎は、わずか7歳で浮世絵師の歌川国芳に入門し、10歳になると父である喜右衛門の薦めもあり、狩野派絵師の前村洞和に再入門しました。

 

師である洞和は暁斎の画才を高く評価し、洞和が病で倒れた後は洞和の師家である駿河台狩野家当主・狩野洞白陳信の元で修業を続け、19歳になると洞白より洞郁陳之の画号を与えられ、浮世絵修業を卒業しました。

 

・修業後の苦難の時代を過ごした暁斎

暁斎が修業を終えた幕末から明治は、絵師や日本の美術界にとっても苦難の時代でした。

 

倒幕によって幕府の支援を失った多くの流派の絵師たちは路頭に迷っていましたが暁斎は、残酷な場面の絵画、真面目な仏画絵、風刺画、行燈絵、錦絵、戯画など求められればあらゆる分野の絵を描きました。

 

また、暁斎は狩野派だけでなく土佐の住吉派、円山四条派、琳派、四条派などの浮世絵も学び、文人画、中国画、西洋人体図等すべての物を吸収して描きました。

 

また、惺々狂斎、酒乱斎雷酔、酔雷坊など複数の画号も用いていました。

 

当時、暁斎は絵を描き始めると筆が早く忠実に描くため席画や戯画には人気がありました。

 

しかしながら、筆が滑って描いた政治批判の戯画が原因で筆禍事件を起こして捕らわれて釈放後に「暁斎」と画号を改めて絵師として再活動しましたが、美術史からも敬遠される一因となってしまいました。

 

・「日本最大の画家」と評された暁斎の晩年

絵師としての活動を再開した暁斎は、国内外の博覧会に積極的に作品を出展しました。

 

暁斎は1876年開催の米国のフィラデルフィア万国博覧会に肉筆作品を出展して、1881年には第2回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図」を出展して日本画の最高賞の「妙技二等賞牌」を受賞しました。

 

その結果、海外との交流も広がり、英国人建築家のジョサイア・コンデルが暁斎に入門し、ドイツ人医師であるエルヴィン・ベルツから「日本最大の画家」と評され、暁斎は人気の絵師になりました。

 

暁斎は岡倉天心とフェノロサらに東京美術学校の教授の依頼を受けることなく1889年に亡くなりました。

 

暁斎の弟子には実後の暁雲、暁翠、真野暁亭、島田友春、織部暁月、早川松山、荒木白雲などがいました。東京の谷中にある暁斎の墓は、遺言により暁斎が3歳の時に描いた蛙の墓石が立てられています。

 

(まとめ)

暁斎は、狩野派の流れを汲んだ道釈人物画から戯画、そして浮世絵まで幅広く活躍した絵師です。

 

暁斎は日本の美術史から敬遠された時期もありましたが、埼玉県蕨市市南町には暁斎の曾孫によって河鍋暁斎記念美術館が設立されているので、

 

暁斎の曾孫によって埼玉県蕨市市南町に設立された河鍋暁斎記念美術館には暁斎の作品や未完成作品があるので、幕末から明治を生き抜いた浮世絵の画鬼である暁斎の思いに触れることができるのではないでしょうか。

 

 

林十江―近世を代表する水戸の南画家―

林十江とは
―近世を代表する水戸の南画家―

林十江は、江戸時代の中期から後期に活躍した水戸出身の南画家で、篆刻家としても十江は活躍しました。

 

十江は水戸の儒学者である立原翁軒によって画才を見出されましたが、江戸に移り画家としての夢が破れて再度水戸に戻り、30代の若さでこの世を去ってしまいました。

 

十江は、作品の筆遣いが大胆で自由奔放に描かれ、構図も奇抜な特徴があります。

 

水戸を代表する画家と言えば横山大観ですが、十江は萩谷遷喬、立原杏所と娘の立原春沙と並び水戸の「4画人」の一人です。

 

・水戸の儒学者、立原翁軒によって見出された十江の画才

十江は、水戸の造り酒屋を営みながら俳人でもあった高野惣兵衛之茂の長男として1778年に水戸で生まれましたが、醤油醸造屋の伊勢屋を営んでいる伯父の林一郎平衛枝繁の養子に出されてしまいます。

 

十江の画才を最初に見つけたのは、水戸藩主光圀が設立した「大日本史」編纂所の総裁であり、儒学者であった立原翠軒でした。

 

幼少の頃から画才があった十江は、12歳位なると立原翠軒の塾に遊びに行くようになりました。

 

十江が翠軒の前で絵を書く度に翁軒は、十江の画才の素晴らしさに驚かれました。当時はまだ10代前半の十江でしたが、翠軒の息子である杏所に絵の指導をしたりして、すでに町人と画家としての2つの顔を持っていました。

 

1812年に立原翠軒と杏所一家が江戸に移ると、翌年の1813年に十江も江戸に移りましたが、なかなか十江は画才を活かすことができず、日本橋近くで街頭の絵馬描きをしながら生計を立てていました。

 

その頃、十江の画才は文人画家の谷文晁に認められるようになり、文晁の作品の代筆などをてがけるようになりました。

 

しかしながら、十江は江戸で画才を生かすことができないまま貧困生活に陥ってしまい水戸に戻り、1813年の9月19日に病気により37歳の若さで亡くなりました。

 

十江のお墓は、水戸市内元吉田町にある浄土宗清巌寺にあります。墓碑銘は翠軒が選び、息子の杏所が書いたとされています。

 

・大胆で型にはまらず自由奔放で奇抜な構図に特徴がある林十江の絵

林十江の作品の特徴は、伝統やしきたり等を無視して型にはまらず自由奔放で構図が奇抜なところです。

 

その特徴は、虫獣画や花鳥画などの作品に多く見られ、対象物へのこだわりも感じられます。

 

また、十江の画号は十江だけでなく、十江狂人、風狂野郎、草巷販夫、金眼鳥、印禅居士、懶惰山老など数多くの号を用いていました。

 

十江の絵は幼少期からの独学によるものと思われますが、桜井雪館や円山応挙が師であった尾張の画僧の月僊に影響されて、和歌、篆刻や書画などを学んだとも思われます。

 

十江の代表的な作品の中で、2匹の鰻が上から下に泳いでいる姿が描かれている「双鰻図」の墨絵があります。

 

この墨絵の構図は、墨絵の中に描かれている2匹の細長いS字型をした鰻が、泥を周りに巻き上げながらぬらぬらと泳ぐ一瞬をとらえています。

 

その構図はまるで高速レンズのカメラで捉えたような一瞬です。

 

この作品は、十江が無駄のない筆致で一気にすばやく生き生きと描き上げた絵と伝えられていますが、線に生命力と勢いがあり、墨の濃淡の差によって鰻の皮の表面のぬるぬる感と泳いでいる鰻の様子までが伝わってくるような作品です。

 

この作品には、十江の題材に対する鋭い観察力と描写の表現力の才能の素晴らしさが表れています。

 

さらに、この作品には、十江の伝統やしきたりはまらず自由奔放に描く特徴も良く表われています。

 

(まとめ)

林十江の人生を振り返ると立原翁軒との出会いは、十江が画家として歩き出すきっかけとなりました。

 

当時40歳過ぎの武家である立原翁軒が、町人である十江との交流を通して十江の画才を見出したことは、翁軒の人柄が年齢や身分だけで人を差別しない人物であったことだけでなく、幕末の水戸藩内の大らかさも伺えます。

 

その水戸藩内で幼少期を過ごした十江の作品にも、翁軒や当時の水戸藩の「良い」影響が表れているのではないでしょうか。

 

 

徳川斉昭(第9代水戸藩主)

徳川斉昭とは

 

―炎のように烈しい生涯を生き抜いた第9代水戸藩主―

 

徳川斉昭は水戸藩の部屋住込みの藩士から水戸藩主になり、藩政改革や幕政に尽力し、幕末から明治維新の改革に大きな影響を与えましたが、優秀な改革力は逆に敵を増やす結果を招き、「安政の大獄」や「桜田門の変」などを引き起こす要因となりました。

 

・藩部屋住込みの藩士から第9代常陸水戸藩主へ

斉昭は第7代水戸藩主・徳川治紀の3男として生まれたので藩主になる可能性は全くなく、部屋住みの藩士の一人として生涯を終える予定でした。

 

しかしながら父親の藩主徳川治紀は、長男の斉修に万が一のことがあった場合を考慮して斉昭を藩主候補にしていたので斉修の亡き後、第9代藩主になることができました。

 

・斉昭が取り組んだ水戸藩の藩政改革―「4つの義」

斉昭が取り組んだ藩政改革の「4つの義」は、改革派家臣である藤田東湖や会沢正志斎らと共に行いました。

 

この「4つの義」の改革は、藩内の全領土を検地する「経界の義」、藩の家臣を水戸藩の領地内に土着させて軍備体制の強化を図る「土着の義」、弘道館や郷校の開校によって藩士の育成を図る「学校の義」、家臣や藩士たちの江戸常住である「定府制」の廃止を薦める「惣交代の義」でした。

 

さらに、斉昭は藩政改革の一つとして水戸の偕楽園も造りました。

 

偕楽園の「偕」は水戸藩の領民、そして「楽」は偕楽園で藩主斉昭が領民と共に楽しむことを願ったことを意味しているので、偕楽園の計画は斉昭自ら行いました。

 

また、「惣交代の義」の改革による「定府制」廃止は、幕府を敵にまわす結果となりました。

 

・敵を増やしてしまった斉昭の改革力

斉昭の改革力は優れていましたが敵を増やし、幕府との対立も強くなってきました。

 

特に将軍継嗣問題と開国政策に対する家斉と大老井伊直弼の対立は「安政の大獄」や「桜田門の変」まで引き起こしてしまいました。

 

「安政の大獄」は、1858年(安政5年)に大老井伊直弼が断行して調印した日米修好通商条約と第14代将軍の継嗣の2つの事案に反対の立場を取った家斉の尊王攘夷派グループに対する弾圧事件です。

 

開国賛成派である直弼率いる南紀派が推した家茂が第14代将軍になった後、朝廷の許可なしに直弼が「日米修好通商条約」に断行して調印したことに激怒して江戸城の乗り込んだ斉昭でしたが、逆に直弼から謹慎処分を受け、政界引退に追い込まれてしまいました。

 

しかしながら、斉昭の開国反対の尊王攘夷思想を受け継いだ水戸藩の志位達は、朝廷も斉昭と同じ攘夷の考えであることから朝廷から幕政改革を命じる勅命を下してもらうために動きました。

 

その後、朝廷が「戌午の密勅」を下しましたが、直弼の逆鱗に触れて斉昭は水戸で死ぬまで謹慎する永蟄居を命じられ、直弼の開国派との対立に完敗してしまいました。これが「安政の大獄」です。

 

「桜田門の変」は、再度、斉昭の尊王攘夷思想を受け継いだ志士たちが立ち上がり、水戸の脱藩浪士たちが1860年の3月3日に、江戸城登城に向かう井伊直弼を討ち取った事件です。

 

この「桜田門の変」の後も斉昭の幕政復帰と永蟄居の命は解かれませんでした。斉昭は桜田門の変で直弼が亡くなった年と同じ年の8月15日に61歳で水戸城にてなくなりました。

 

(まとめ)

現在の茨城県水戸市内にある千波公園内には、斉昭と七郎麿(最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜)親子の像があります。

 

水戸藩主の3男として生まれながら藩主になることができた斉昭は炎のように烈しい生涯をいきぬきました。

 

この親子像が物語っているように息子と過ごしたこの時期が斉昭の生涯の中では、慶喜の父親として過ごせた一番良い時代ではなかったでしょうか。

 

 

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