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人間国宝 原清

原清(はらきよし)

 

原清は鉄釉陶器で人間国宝に認められた陶芸家です。

 

近代の鉄釉陶器を代表するふたりの人間国宝

 

「石黒宗磨」と「清水卯一」に指導を受け

 

精力的に創作活動を続けてきた原清は、

 

これまでに数えきれないほどの素晴らしい作品を

 

世に産み出してきました。

 

そんな原清の生涯と作品の特徴を紹介していきます。

 

 

原清とは

 

原清は1936年に島根県斐川町で生まれました。

 

斐川町は現在の出雲に当たります。

 

出雲は江戸時代から有田や唐津の陶磁器が

 

よく渡ってきた土地でした。

 

この土地で、原清は一つの出会いを果たします。

 

ある日の登下校中、原清は染付の

 

古い陶器の破片を見つけたのですが

 

この陶器の美しさに魅せられ、

 

陶芸の道を志すこととなったのです。

 

これが原清の陶芸家としての原点です。

 

 

1955年、19歳になった原清はのちに人間国宝となる

 

石黒宗磨と清水卯一に陶芸を学ぶことになります。

 

その後、窯を埼玉県に移し

 

「鉄釉」の技法を研究していきます。

 

この鉄釉の技術で、原清は陶芸家として

 

大きく名を広めることになり

 

2005年、人間国宝に認められることになりました。

 

 

原清の作品の特徴

 

原清の作品は、

 

なんといっても鉄釉の美しい色合いが特徴的です。

 

鉄釉とは、植物からできた灰に

 

酸化鉄を混ぜた釉薬のことで

 

釉薬中の鉄分の量で黒や茶色など

 

微妙に色合いが変わって発色します。

 

原清はこの鉄釉の色使いが

 

非常にうまいことで有名です。

 

彼の作品では草原を駆け回る馬や風に揺らぐ草花など

 

日常の自然の世界を題材に鉄釉の黒と褐色が

 

絶妙に混ざり合うように表現されています。

 

また、鈞窯(きんよう)という不透明な青の下地に

 

胴を用いて紫紅色の斑点を発色させる技法も

 

原清の作品によく見られます。

 

 

原清の代表作

 

「鉄釉馬文大壺」は鉄釉による

 

味わいの深い色合いが特徴的です。

 

少し黒みがかった茶色とそれに溶け込むように描かれた

 

黒色の馬が見た人の目を引きます。

 

「鈞窯輪花鉢」は鈞窯を用いて作られた陶器です。

 

鮮やかな青色の下地の上に

 

ワンポイントで塗られた紫の斑点が非常に印象的です。

 

 

人間国宝  三代目 徳田八十吉

三代目 徳田八十吉(とくだやそきち)

 

石川県金沢市で作られる九谷焼は

 

美しい色合いの絵柄が施された陶器で有名です。

 

しかし、その九谷焼の中で

 

ひときわ異色な光を放つ作品があります。

 

それが人間国宝、徳田八十吉(とくだやそきち)の作る

 

久谷焼です。

 

彼の作品の特徴は絵の華やかさではなく、

 

美しいグラデーションにあります。

 

絵が施された陶器のような華やかさはありませんが

 

見た人を一瞬でひきつける魅力が

 

彼の作品にはあります。

 

ここでは、そんな徳田八十吉の経歴や作風について

 

詳しく説明していきます。

 

 

徳田八十吉とは

 

人間国宝に認定された徳田八十吉は

 

3代目の徳田八十吉です。

 

彼は、初代徳田八十吉の、孫にあたります。

 

初代徳田八十吉は、古九谷焼の五彩の復元に

 

成功したことで脚光を浴びました。

 

古九谷は、江戸時代に作られていた九谷焼で

 

五彩という五色の色を使った手法により

 

鮮やかな陶器が焼かれていました。

 

そして時がたち、当時の久谷焼を再現しようと

 

多くの人が五彩の復元に取り組みましたが、

 

誰も当時の色合いを再現することはできませんでした。

 

そんなとき、初代の徳田八十吉は

 

試行錯誤の末に五彩の復元に成功し、

 

その秘伝の手法を3代目徳田八十吉に伝授しました。

 

 

3代目徳田八十吉と作風について

 

3代目の徳田八十吉は

 

初代に教えてもらった五彩の手法に変化を加え、

 

釉薬をうまく重ねて配置することで

 

グラデーションのある色彩の陶器を

 

作ることに成功しました。

 

この手法を「耀彩(ようさい)」といいます。

 

耀彩は簡単な技術ではありません。

 

窯による焼成を

 

通常の700度ほどから1000度まで上げることで

 

うまく重ね合わせた釉薬を絶妙に溶かして

 

混ざり合わせてグラデ-ションを作るという

 

高度な手法でした。

 

この手法を使い、かつての古九谷の色と

 

新たな耀彩という手法を組み合わせ、

 

今までにない作品を次々と世に出した

 

3代目徳田八十吉は

 

数々の賞を受賞し

 

平成9年人間国宝に認定されたのでした。

 

 

徳田八十吉の作品

 

徳田八十吉の作品は耀彩による

 

美しい色のグラデーションが特徴的です。

 

紺色の色彩を中心に絶妙な濃淡具合が

 

作品の深みをだしています。

 

また、陶器自体も厚さや曲線が繊細に作られています。

 

作品の例としては、「8.5号壷 恒河」や

 

8号壷 碧明耀彩遊線文」などがあります。

 

特に「8.5号壷 恒河」は

 

数百万の値段が付けられています。

 

吸い込まれるかのような繊細なグラデーションは

 

3代目徳田八十吉ならではの

 

高い技術として評価されており、

 

非常に価値の高い作品となっています。

 

 

その技術は4代目徳田八十吉へ

 

残念ながら、3代目徳田八十吉は

 

2009826日にお亡くなりになられました。

 

そして、現在その後を継いでいるのが

 

4代目徳田八十吉です。

 

4代目は3代目徳田八十吉の娘であり

 

彼の耀彩技法やその他の手法を受け継いでいます。

 

また、女性ならではの感性を生かした作品を作っており

 

次々に高い評価をもらっています。

 

3代目の技術を受け継ぎ

 

さらに新たな色へのチャレンジもしており

 

注目の陶工とも言えます。

 

3代目徳田八十吉は耀彩という手法を使い

 

今までにない

 

美しいグラデーションの作品を作ってきました。

 

そして、その手法は現在4代目に受け継がれ

 

さらなる進化を遂げようとしています。

 

 

人間国宝 清水卯一

清水卯一(しみずういち)

 

清水卯一は、中国の鉄釉や柿釉の技術を研究し

 

制作した作品で有名となり

 

人間国宝に認定された陶芸家です。

 

日本伝統工芸展に自身の作品を出品して

 

注目を集めるようになってからは、

 

ブリュッセル万国博覧会でグランプリを受賞するなど

 

国内外から高い評価を受けました。

 

晩年には病気に悩まされながらも

 

亡くなる直前まで古典の作品を作ると口にしており

 

誰よりも陶芸を愛した陶芸家でした。

 

 

清水卯一とは

 

清水卯一は1925年に京都で生まれました。

 

彼の家は陶工に関わる職人を束ねていた

 

陶器卸問屋をしており

 

幼いうちから陶芸に触れた生活を送っていました。

 

卯一が11歳の時に父は病死してしまい

 

家業を継ぐために立命館商業学校に入学しました。

 

しかし次第に陶芸に興味を持ち、学校に行かなくなると

 

卯一は近隣のろくろ師の家に通うようになります。

 

これに困った親は、卯一をのちに初代人間国宝となる

 

石黒宗磨のもとに弟子入りさせることを決め、

 

陶芸を本格的に学ばせました。

 

石黒宗磨のもとで卯一は、中国陶芸を学んでいきます。

 

しかし、戦時中により石黒のもとに通い続けることが

 

困難になった卯一は、やがて

 

石黒の弟子としての道をあきらめました。

 

その後、国立京都陶磁器試験場伝習生を経て

 

京都市工業研究所窯業部の助手になり

 

終戦を機に自宅に仕事場を設けて

 

本格的に陶工として歩み始めたのです。

 

1970年には

 

京都から滋賀県滋賀郡の蓬莱山のふもとに移り

 

新たに窯を開きました。

 

ここでは、陶器の原料となる土や石を

 

全て蓬莱でとれたものだけを利用するという

 

こだわりを持って作品を作っています。

 

そして、1985年、鉄釉陶器が認められた卯一は

 

人間国宝の認定を受けたのでした。

 

 

清水卯一の作品の特徴

 

清水卯一は「感激一瞬」を人生のテーマに

 

作品を作り続け

 

人々の心に感動を与える作品を追求していきました。

 

戦後まもなく、人々の生活が困難だった時代には

 

温かみのある陶器を見て心を癒してほしいとの願いから

 

「柚子肌釉」を使った

 

優しい味わいの作品を作るようになりました。

 

柚子肌釉を用いた陶器は名前の通り

 

柚子のような質感が出て

 

温かみのある作品となります。

 

また、石黒宗磨のもとで修業していたこともあり

 

鉄釉を用いた渋い黒や茶色の、味のある作品も

 

多数制作しました。

 

 

代表作

 

清水卯一の作品として有名なものに

 

「鉄釉大鉢と小鉢」や

 

「蓬莱磁彫刻花文花瓶」などがあります。

 

「鉄釉大鉢と小鉢」はシンプルなデザインに

 

素朴ながらも美しい鉄釉の輝きが映え、

 

思わず見とれてしまうような作品です。

 

また、原料の全てを蓬莱山から調達して作った作品は

 

蓬莱の名前が作品につけられており、

 

蓬莱磁彫刻花文花瓶もそのうちの一つとなります。

 

 

人間国宝 島岡達三

島岡達三(しまおかたつぞう)

 

縄文象嵌で有名な人間国宝、島岡達三が

 

陶芸に目覚めたのは彼が高校生の時です。

 

その後、東京工業大学の窯業学科を卒業し

 

濱田庄司を師として益子焼の作陶を始め、

 

最終的には縄文象嵌と呼ばれる

 

独特の美を生み出しました。

 

ここではそんな島岡達三の経歴や

 

作風をご紹介していきます。

 

 

島岡達三とは

 

島岡達三は東京に生まれ

 

学生の頃に目黒区駒場にある「日本民藝館」で

 

民芸作品を目にしたことをきっかけに、

 

陶芸の道を志しました。

 

そして民芸運動の中核メンバーである

 

栃木県益子の濱田庄司(はまだ しょうじ)の弟子となり

 

陶芸の腕を磨きます。

 

その後は栃木県窯業指導所に勤務し

 

古代土器の標本を作るなどして縄文土器の知識を深め

 

34歳の頃には

 

独立して自分の窯を持つまでとなりました。

 

 

島岡達三が独立をしたのは、それまで濱田庄司の作品と

 

似たような作品ばかりを作陶していたことを

 

濱田が見かねて、「自分独自のものを考案して作れ」と

 

諭したのがきっかけだと言われています。

 

それから島岡は研究を重ね、組紐からアイディアを受け

 

それを転がして出来る縄目に白土を埋め込む

 

「縄文象嵌(じょうもんぞうがん)」の技術を

 

完成させていきました。

 

さらに、島岡は縄文象嵌に加え

 

素地に白い窓絵を設けた中に赤絵で描画したり、

 

象嵌に青・黒色の土を用いて焼成するなど

 

独自の技法を確立しました。

 

これに師である浜田庄司からの影響も交えた作品が

 

後の平成8年、国の重要無形文化財

 

「民芸陶器(縄文象嵌)」保持者に認定されたのです。

 

他にも島岡達三は、昭和55年に栃木県文化功労賞、

 

平成6年に日本陶磁協会賞金賞、

 

平成11年に勲四等旭日小綬章を受章するなど

 

多くの賞を受賞し

 

日本だけではなく海外でも大規模な個展を開くなど

 

作陶指導を始めとした活動を行いました。

 

 

縄文象嵌とは

 

縄文象嵌とは、陶器の地に縄目を施し

 

色の違う土をはめ込む(象嵌する)技法のことです。

 

平成8年に島岡達三によって確立され

 

重要無形文化財として認定されています。

 

特殊な釉薬を用いているので

 

器が白濁しているのが特徴で

 

技法としては、まず成形して半乾きの状態の素地に

 

縄を転がして模様をつけるところから始まり

 

縄模様の凹んだ部分を含め

 

全体に化粧土を塗り、乾燥させます。

 

そして表面を削ると、縄で凹んだ部分には化粧土が残り

 

もともと平らな部分には下地があらわれる事で

 

縄模様がくっきりと浮き出てくるのです。

 

この状態に透明釉をかけて焼成することで

 

本焼きが完成します。

 

 

このような技法と独自のアイディアによって

 

島岡達三の縄文象嵌は作り出されてきました。

 

 

来歴でも紹介した、縄文象嵌に

 

ろうそくを用いてつくった白い窓絵の中に

 

赤絵で描画を施す装飾や

 

象嵌に青や黒色の土を用いる装飾など、

 

他の技法と組み合わせつつ

 

独自の発想を組み込むことで

 

島岡達三独自のデザインが仕上がっていきます。

 

そのため、島岡達三の作品は

 

他の技法と組合せた独創的な作品が多く見られます。

 

中でも、特にその特徴が表れていると言われているのは

 

象嵌赤絵草花文角瓶です。

 

島岡達三独特の縄文象嵌、一部青い土を用いた地

 

そして窓絵、と多くの技法が施されており

 

瓶の4つの面はそれぞれ赤絵が違うので、

 

見る角度により異なった印象や雰囲気が楽しめる点も

 

魅力の一つとなっています。

 

 

その他にも島岡達三は、

 

朝鮮の三島のやきものにも興味を持ち

 

独特の印花、刷毛目、彫三島、の3つの技法の内、

 

印花を応用して

 

縄文象嵌を作り上げたとも言われています。

 

 

三島達三が人間国宝に認定されたこともあり

 

益子焼はますます名を広げました。

 

現在でも栃木県芳賀郡益子町では

 

多くの陶芸家が活躍しており

 

人々に親しまれています。

 

 

人間国宝 濱田庄司

濱田庄司(はまだしょうじ)

 

濱田庄司は近現代の日本を代表する陶芸家です。

 

柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチなどの

 

陶芸家から指導を受け、

 

数多くの名作を作り上げていきました。

 

彼の作品は、シンプルな造形と大胆に施された

 

釉薬の模様が特徴的であり

 

1955年には第一回の人間国宝にも選ばれました。

 

 

また、濱田庄司といえば、民芸運動でも有名です。

 

日用品の中に美しさを見つけようとする

 

「用の美」を見出し

 

活用していこうという運動は大きな反響をよびました。

 

ここでは、そんな濱田庄司の生涯と

 

作風について紹介します。

 

 

濱田庄司とは

 

濱田庄司は1894年に東京で生まれました。

 

陶芸家の道を志したのは中学校に入学してからです。

 

高校は陶芸について学べる

 

東京高等工業学校窯業科に進み

 

その後京都の陶磁器試験場に入所して

 

陶芸家として第一歩を踏み出しました。

 

また、このころに濱田は陶芸家の巨匠ともいえる

 

柳宗悦、富本憲吉、バーナード・リーチと出会い

 

陶芸家として成長していったのでした。

 

 

1920年からはバーナード・リーチの帰国に同行し、

 

イングランドで窯を開きます。

 

濱田庄司はロンドンなどでも個展を開くなど

 

海外でも高い評価を受けていました。

 

日本に帰国後は、沖縄で壺屋焼を学んだ後、

 

栃木県の益子市に腰を据えます。

 

また、益子に移ってからは柳宗悦や河井寛次郎らと

 

民芸運動を始め,日本の工芸会にも

 

大きな影響を与えた一人になりました。

 

濱田庄司は1955年に人間国宝に認定され、

 

1968年には文化勲章を授かり

 

日本を代表する陶芸家としてその名を刻んでいます。

 

 

濱田庄司の作品の特徴

 

濱田庄司は赤絵や流掛、

 

塩釉などの技法を得意としました。

 

塩釉は最高温時に食塩を窯の上部から投入し

 

食塩のナトリウムと陶土のケイ酸が融合させる技法で、

 

塩が作品に焼ついてガラス模様になる面白い技法です。

 

これ以外にも、沖縄で身に付けた黍文(きびもん)

 

という独特な模様を施した作品なども作っており

 

作品作りにおいて様々な引出しを持った陶芸家でした。

 

 

代表作

 

塩釉を施した作品では

 

「塩釉押文花瓶」などが有名です。

 

美しいツヤと色合いが特徴的な花瓶です。

 

また、青釉押文十字掛角皿や白釉黒流描鉢、

 

飴釉地掛筒描楕円皿など、

 

様々な釉薬を駆使した多彩な作品も

 

数多く手がけてきました。

 

濱田庄司の作る作品はどれも力強さがあり、

 

見る者の目を引くものばかりです。

 

 

人間国宝 石黒宗磨

石黒宗磨(いしぐろむねまろ)

 

石黒宗麿は京都府出身の陶芸家です。

 

彼はその生涯の中で

 

中国や朝鮮の古陶器について研究し

 

中国の唐、宋時代の技法を解明するなど

 

大きな功績を残しました。

 

また、日本で初めて人間国宝に選ばれた

 

陶芸家としても有名です。

 

ここではそんな石黒宗磨と

 

その作品についてご紹介します。

 

 

石黒宗磨とは

 

石黒宗磨は明治26年、富山県射水市で生まれました。

 

学生時代は中学でストライキを企て退学したり

 

大学でも仕送りを遊びに使って中退するなど

 

自由奔放な行動が目立ちましたが、

 

そんな石黒が陶芸家を目指したのは25歳の時です。

 

当時、中国の宋時代に作られた「耀変天目」

 

という陶器に大変影響を受けた石黒は、

 

陶芸家になることを志します。

 

35歳の時には、東洋陶磁器研究の第一人者であった

 

小山富士夫に影響を受け

 

中国の唐・宋時代の古陶器を研究するようになります。

 

そして、研究の末に「木葉天目」などの作品を

 

再現することに成功しました。

 

若いころの自由な感性をなくさず、石黒はその他にも

 

黒柚や鉄絵、天目柚、唐津、色絵、灰柚など

 

多岐にわたる技術を駆使して作品を作り続けました。

 

 

その後、当時初めて作られた人間国宝の制度に

 

富本憲吉、濱田庄司、荒川豊藏ら3人と共に選ばれ

 

日本初の人間国宝の一人に選ばれたのでした。

 

 

石黒宗磨の作品の特徴

 

石黒は25歳で陶芸家になり、特定の師を持たずに

 

陶芸家の道を歩むことになりました。

 

そんな石黒は、東京、富山、埼玉、

 

金沢、京都などを転々していくうちに

 

小山富士夫や金重陶陽などと交流を持つようになり

 

様々な技法を身につけていきました。

 

その中でも、鉄釉陶器の技法が有名で

 

この技法により石黒は

 

人間国宝に選ばれることになりました。

 

鉄釉陶器とは、植物の灰に

 

酸化鉄を混ぜたものを釉薬として用いた陶器です。

 

鉄釉を釉薬に用いることで酸化鉄が呈色剤となり

 

味のある陶器を作ることができるのです。

 

また、こうした酸化鉄で陶器に絵を付けるものを

 

「鉄絵」と呼びます。

 

 

代表作

 

石黒宗磨の作品で有名なものは、中国の宋時代の

 

幻といわれていた技法を再現して作った

 

「木葉天目」です。

 

この作品により、石黒の名前は

 

広く世に伝わるようになりました。

 

木葉天目は鉄釉の陶器に木の葉を焼き付けた茶碗で

 

光り輝く黒色がなんとも美しい作品です。

 

また、鉄釉作品以外にも

 

チョーク描と呼ばれる珍しい絵付けを施した

 

「白地チョーク描薔薇文鉢」なども有名です。

 

様々な技法を取り入れ

 

多彩な陶器を作り上げていった石黒宗磨は

 

まさに初代の人間国宝にふさわしい陶芸家であった

 

と言えるでしょう。

 

 

人間国宝 十四代酒井田柿右衛門

十四代酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん)

 

十四代目酒井田柿右衛門は、

 

有田焼を代表する陶芸家です。

 

美しい色絵の技術や「濁手」と呼ばれる

 

独特の技術を得意としており、

 

海外からも評価の高い作品を

 

次々と作り上げていきました。

 

2001年には

 

「色絵磁器」の重要無形文化財保持者として

 

人間国宝にも認定されています。

 

そんな、十四代酒井田柿右衛門の生涯と

 

手がけた作品について紹介していきます。

 

 

十四代酒井田柿右衛門とは

 

柿右衛門家の始まりは17世紀前までさかのぼります。

 

良質な陶土がとれるとして佐賀県の有田町に移住した

 

酒井田円西は息子の喜三右エ門と共に、

 

白磁や染付などを作っていました。

 

その後17世紀前半

 

赤絵磁器の制作に成功したことを機に

 

「柿右衛門」の名を名乗るようになりました。

 

そこから柿右衛門家は技術と作風を継承し続け、

 

現在までその名前を受け継いでいます。

 

 

十四代酒井田柿右衛門は1934年、

 

佐賀県で生まれました。

 

父は、のちの十三代酒井田柿右衛門となる

 

酒井田渋尾でした。

 

十四代酒井田柿右衛門は、

 

多摩美術大学日本画家に進学し

 

絵画的構想力や絵画技術の基礎を習得していきました。

 

卒業後は十二代柿右衛門や十三代柿右衛門から

 

製陶技術を学んでいき

 

1966年に陶芸家としてデビューしました。

 

デビュー後は、優れた絵画技術と、

 

柿右衛門家で受け継がれる「濁手」と呼ばれる技法で

 

数々の名作を作り上げていきます。

 

国内外で名誉ある賞をもらうようになり

 

2001年、ついに色絵磁器の分野で陶芸家として

 

人間国宝に認定されたのでした。

 

 

 

十四代酒井田柿右衛門の作品の特徴

 

十四代酒井田柿右衛門は

 

「濁手」を中心に創作活動を続け

 

作品を世に送り出してきました。

 

「濁手」とは乳白色の素地のことで

 

通常有田焼で使用するものは青みが強いのに対し,

 

濁手には青みがほとんどないのが特徴です。

 

この濁手の上から色絵を描くことで、

 

絵の色合いが引き立ち

 

鮮明な絵柄の作品が作られるようになるのです。

 

 

実は、濁手の製作は江戸中期に一度中断されており

 

長い間復興されていませんでした。

 

これを復興させたのが十四代の父と

 

祖父に当たる十三代と十二代柿右衛門だったのです。

 

十四代は、先代の技術を受け継いで

 

素晴らしい作品を世に送りだしていったのでした。

 

 

代表作

 

「濁手桜文鉢」は濁手による純白の下地に

 

鮮やかな絵が施されている作品です。

 

淡い色合いで絵が施されており、

 

やわらかな味わいが感じられる作品です。

 

一方「濁手山つつじ文鉢」は

 

赤色の鮮明な色絵が描かれており

 

見る人の眼を引く作品となっています。

 

 

人間国宝 十四代今泉今右衛門

十四代 今泉今右衛門(いまいずみいまえもん)

 

十四代今泉今右衛門は陶芸家として最年少となる

 

51歳で人間国宝に認定されています。

 

今泉今右衛門窯では代々「鍋島焼」という、

 

販売を目的とせず将軍への献上や

 

幕府の要人に向けての贈り物として作られる焼き物を

 

伝承してきました。

 

伝統を受け継ぎながら

 

新しさを加えることも忘れなかった

 

今泉今右衛門の鍋島焼は、年々作品に磨きがかかり

 

現在では今泉今右衛門は国宝といわれるまでの作品を

 

作るようになったのです。

 

 

ここでは、人間国宝に選ばれた

 

十四代今泉今右衛門についてご紹介していきます。

 

 

十四代今泉今右衛門とは

 

十四代今泉今右衛門が陶芸の道を歩み始めたのは

 

26歳になってからです。

 

大学時代は鉄の彫刻を学び、

 

卒業後はインテリア販売の会社に就職。

 

様々な芸術の形に触れたのち、陶芸家の鈴木治に

 

弟子入りすることになりました。

 

鈴木治の下では「ろくろや手捻り、老舗の作品など、

 

とにかくいろいろなものを見るように」と教えられ、

 

勉強に励みました。

 

ちょうどその頃は、同年代の陶芸家が

 

公募展で受賞して実績をつくっており

 

周りと比較してしまい焦りを感じていた今右衛門でしたが

 

今この時期に学んだ感性や技術が

 

のちの作品に生きてくるのでした。

 

1990年以降は

 

父である十三代今泉今右衛門のもとで家業を継ぎ、

 

色鍋島を中心とする

 

色絵磁器の陶芸技術を受け継ぎました。

 

その後は、色鍋島の技法に自分独自の技法を織り交ぜ

 

様々な賞を受賞していきました。

 

 

十四代今泉今右衛門の作品の特徴

 

十四代は、古くから鍋島焼に用いられる

 

「墨はじき」という技法を発展させた

 

雪花墨はじき」という技法を考案しました。

 

ここで表現されている模様は

 

ある時伝統の「墨はじき」という技法で

 

梅の花を描いたところ

 

焼き上がりが雪の結晶に見えたことがきっかけで

 

生まれたといいます。

 

墨はじきはまず墨で模様を描き

 

そこに染付け用の呉須の絵具を塗り焼成することで、

 

呉須をはじいた墨が飛び

 

美しい白抜きだけが浮き上がるようになっています。

 

 

代表作

 

代表作の「色絵薄墨墨はじき時計草文鉢」は

 

時計草の花模様と雪の結晶のバランスが絶妙な、

 

やさしい雰囲気に包まれた作品です。

 

墨の濃淡で花が内側から外側に向かって

 

広がっていく様子も

 

見事に表現されています。

 

また、「色絵薄墨墨はじき柘榴文蓋付瓶」も

 

鮮やかな色使いで描かれたザクロの葉と、

 

白く抜かれたざくろ模様が独特の風合いを生む、

 

今右衛門の名作として知られています。

 

 

人間国宝 十三代今泉今右衛門

十三代 今泉今右衛門(いまいずみいまえもん)

 

十三代今泉今右衛門は、江戸時代から受け継いできた

 

「色鍋島」に十三代独自のオリジナリティを加え

 

現代の角度からみた色鍋島の製作を行ってきました。

 

十三代が技法として確立した

 

「薄墨吹墨」や「染付吹墨」は

 

伝統工芸展や日本陶芸展などで高い評価を得ており

 

ついに平成元年に人間国宝として認められたのでした。

 

 

十三代今泉今右衛門とは

 

今泉今右衛門窯では江戸時代から

 

代々「色鍋島」という色絵磁器の技術を

 

一子相伝で現代まで伝えてきました。

 

色鍋島は庶民には流通せず、

 

将軍への献上などを目的に作られた焼き物です。

 

今泉今右衛門家はこの色鍋島の伝統という宿命を背負い

 

明治維新、世界恐慌、第二次世界大戦という

 

動乱の世にも耐えながら技術を継承し続けました。

 

十三代今泉今右衛門は

 

色鍋島の伝統技術を継承するだけでなく

 

一作家としての個性を作品に込めるためにも

 

色鍋島にある現代性を引き出すことに尽力しました。

 

そして確立されたのが

 

吹墨」と「薄墨」という技術でした。

 

この技術で色鍋島独特の品性を備えつつも

 

今までにない色鍋島を作ることに成功したのです。

 

 

その後、十三代今泉今右衛門は色絵磁器の

 

重要無形文化財保持者として

 

人間国宝に認められました。

 

十三代は

 

「伝統とはただ引き継ぐのではなく、継承していく中で

 

その時代に合わせたものを新たに作っていくもの」

 

というメッセージを込めて

 

次世代に色鍋島を伝承しました。

 

 

十三代今泉今右衛門の作品の特徴

 

十三代今泉今右衛門は試行錯誤の末に

 

吹墨」という技法を確立しました。

 

吹墨とは作品に墨を吹きつけたような

 

模様を施す技法です。

 

この手法では、呉須を吹き付け、

 

濃淡の付いたしぶきをそのまま模様にします。

 

吹墨が施された陶器は、

 

白磁を地とした色絵付けとは異なる

 

独特の涼しげな風合いを感じることが出来ます。

 

また、同じく十三代が確立させた「薄墨」という技術は

 

吹墨を展開させた技法で、従来の色鍋島にはない

 

紬のような肌合いは温かみを感じさせます。

 

 

代表作

 

十三代の作品として有名なものには

 

「色絵吹重ね草花文蓋付瓶」や

 

「色絵緑地草花更紗文花瓶」があります。

 

「色絵吹重ね草花文蓋付瓶」は縦に伸びる

 

雲地紋の合間に

 

鮮やかな色合いで草花文が施されたもので

 

薄い水色に色づいた地と文様のコントラストは

 

上品さと重厚さを表現しています。

 

また「色絵緑地草花更紗文花瓶」は上絵の緑に

 

染付の青の草花紋が施された作品で、

 

十二代の使った緑地技法を取り入れた

 

伝統的な作品として有名です。

 

 

人間国宝 藤本能道

藤本能道(ふじもとよしみち)

 

藤本能道は色絵磁器で

 

人間国宝に認められた陶芸家です。

 

加藤土師萌と富本憲吉という二人の人間国宝を師にもち

 

二人の師が他界したあとは色絵磁器の第一人者として

 

作品を世に送り続けていました。

 

また、ジュネーブ国際陶芸展で銀賞を受賞するなど

 

世界的にも高い評価を受けていた

 

陶芸家としても有名です。

 

そんな藤本能道の生涯と

 

作品の特徴について紹介していきます。

 

 

藤本能道とは

 

東京都で生まれた藤本能道は

 

学生時代を現在の東京芸術大学にあたる

 

東京美術学校の工芸家図案部で過ごしました。

 

卒業後は富本憲吉や加藤土師萌という、

 

後に人間国宝に認定される陶芸家二人から指導を受け

 

色絵磁器について学んでいきました。

 

彼らが他界してからは、色絵磁器の第一人者となり

 

二人の師とはまた違った独自の色絵磁器の表現を

 

追い求めていくことになります。

 

1986年には美しい色絵磁器の技術が評価され

 

「人間国宝」に認定されました。

 

 

東京芸術大学を経て

 

人間国宝の師に指導を受けていた能道は

 

日本の色絵磁器のエリート街道を歩んできた

 

陶芸家とも言えるでしょう。

 

 

藤本能道の作品の特徴

 

藤本能道は陶芸家の中でも

 

非常に絵画的描写が優れていたことで

 

知られていました。

 

能道の描く絵は磁器の立体面の上でも

 

まるで平面に描いたかのような

 

繊細なタッチで描かれています。

 

また、藤本能動は

 

「草白釉」「雪白釉」「梅白釉」「霜白釉」といった

 

作品の下地となる釉薬を自ら作り、

 

オリジナル性の高い作品を作っていました。

 

最晩年には、「焔舞」といわれる技法で

 

妖艶な絵柄の陶器を描いています。

 

 

代表作

 

藤本能道は、優れた描写技術を活かして

 

芸術性の高い作品を多数世に送り出してきました。

 

その一つが「赤絵大壷」です。

 

この作品は、能道が1965年にジュネーブ国際陶芸展で

 

銀賞を受賞した際に出品されたものです。

 

勢いのあるタッチで描かれた草花と蝶は

 

素朴さの中に美しさを感じられます。

 

また、1968年に光風工芸賞を受賞した

 

「礎器色絵花瓶」も有名です。

 

 

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