お役立ち情報

  • TOP
  • お役立ち情報

近藤悠三【人間国宝/染付】

近藤悠三(こんどうゆうぞう)

 

近藤悠三は京都の出身の陶芸家で、75歳の時に

 

染付技法の重要無形文化財保持者の認定を受けました。

 

12歳で京都市立陶磁器試験場付属伝習所轆轤科に入所し

 

卒業後は同試験所の助手として勤務していましたが

 

のちに退職し、大和の窯で創作活動をしていた

 

富本憲吉に師事しています。

 

その後、京都に戻り関西美術院洋画研究所で

 

洋画やデッサンを学ぶと同時に

 

清水で窯を構えて制作活動を始め

 

26歳の時から帝展で出品した作品が

 

13回連続で入賞したことで、その名を広めました。

 

そのほか54歳の頃には第三回日本伝統工芸展で

 

「山水染付壺」が日本伝統工芸会賞を受賞

 

68歳の頃には紫綬褒章も受賞しています。

 

 

 

【近藤悠三の作品の特徴と技法】

 

近藤悠三の陶磁器における技法の最大の特徴は

 

染付の技法に凝縮されています。

 

ぼかしを用いた筆使いで濃淡をつけて描き

 

絵具もコバルトを精製せず敢えて不純物である

 

鉄やマンガンを含有させることで

 

青白く滲んだ濃淡を浮遊させる、

 

趣のある作品を生み出します。

 

そのような染付の技法を駆使した作品には、

 

葡萄、柘榴、松、梅、山水、詩文などの模様が多く

 

それぞれが大胆かつ味わいのある画風で描かれました。

 

 

染付に用いられる鉱物の中には

 

「呉須」と呼ばれるものがあります。

 

これは陶磁器の染付に用いる顔料の一種であり

 

焼成を行う際に釉に反応して青色を発色します。

 

また、呉須で描かれた陶器は染付と呼ばれ

 

中国では、青花と呼ばれます。

 

呉須土は酸化コバルトを主成分として

 

鉄、マンガンなどの酸化物を多く含んでおり

 

これらの酸化物が多いほど

 

釉の色がくすんだ色になっていきます。

 

日本では主に愛知県の瀬戸地方に産出されましたが

 

少量の為中国からの輸入に頼ることが大きく

 

それらは唐呉須と呼ばれました。

 

また近藤は、金彩や赤絵などの技法を用いた作品も

 

制作しています。

 

赤絵とは、色絵、五彩とも呼ばれる絵付陶磁のことで

 

特に赤絵の具が基調となっているのが

 

その名の由来です。

 

 

近藤悠三の代表作品の中の一つ

 

直径126cm、重量約100kgの梅染付けの大皿は、

 

これらの技法が使われた平皿で

 

世界最大級の規模を誇ります。

 

その豪放な筆致は圧倒的な迫力で、

 

見るものを感嘆させます。

 

 

 

【近藤悠三の評価される所以】

 

近藤悠三は伝統的技法の研究でその技術を追究しながら

 

独自の染付けの技術を会得していきました。

 

民芸調な素朴かつ力強い

 

自由な作風が評価されています。

 

海外でも評価は高く、

 

アメリカ開催の現代世界陶芸家展に

 

日本から選ばれた陶芸家の一人にも選ばれました。

 

オックスフォード大学やオークランド美術館にも

 

作品が収蔵され

 

また、ミラノ・トリエンナーレ展に出品した

 

「染付花瓶」は銀賞を受賞しています。

 

 

 

角谷一圭【人間国宝/茶の湯釜】

角谷一圭(かくたにいっけい)

 

釜師角谷一圭は1904年に

 

大阪市東成区で生まれました。

 

元々宮大工であった家庭に育ち

 

6歳頃から鋳物師である父、角谷巳之助の元で

 

仕事を手伝い始めると

 

21歳で大阪工芸展に初出品した「海老釜」が

 

高松宮総裁賞を受賞しました。

 

その後は制作活動を続けていき、57歳の時には

 

8回日本伝統工芸展で「独楽釜」が朝日新聞賞を、

 

72歳の時には勲四等瑞宝章を受章しています。

 

そして数年後、茶の湯窯の分野で

 

重要無形文化保持者に認定されました。

 

 

 

【角谷一圭の作品】

 

角谷一圭の制作する茶釜は

 

錆は独自の格調高い風情と毅然とした佇まいを、

 

施された文様はそこから優美さを感じさせ

 

我々を魅了します。

 

その文様は、戦後に出回っていた

 

茶釜の名品の修復に長年携わってきた

 

角谷自身の経験が生かされており

 

形態や地紋、鉄味など研究の成果を

 

存分に作品に反映していると言えるでしょう。

 

角谷一圭は自身の作品を

 

鎌倉期の筑前や芦屋釜をベースに築いていきました。

 

 

華々しい数々の受賞歴は

 

釜師としての地位を築き上げましたが

 

その制作意欲は幼少の頃から携わっていた

 

釜師としての仕事と茶の湯の世界に精通したい

 

という気持ちの表れでもあり

 

その思いが人間国宝にまで上り詰める

 

大きな要因でもあったと見受けられます。

 

 

 

【角谷一圭の評価される所以】

 

角谷一圭と言えば茶道界でも知らない人がいない

 

と言われるほどの茶釜師で、

 

釜師としてとても有名ですが

 

1993年には第61回伊勢神宮

 

式年遷宮御神鏡31面鏡を制作するなど

 

日本の伝統文化にも深く精通しています。

 

和鏡の研究にも情熱を注ぎ

 

優美なヘラ押し文様の技術を確立しました。

 

その技術と知識を以って、上記の

 

伊勢神宮式年遷宮御神鏡31面鏡の制作では

 

見事なまでに美しい和鏡を仕上げています。

 

 

このように日本文化を大切に思い

 

作品を作り上げる情熱は、日本の伝統文化を尊ぶ

 

角谷一圭の作品の美しさを一層引き立てています。

 

 

 

海野清【人間国宝/彫金】

海野清(うんのきよし)

 

彫刻家海野清は1884年に東京で生まれます。

 

27歳の時に東京美術学校金工科を卒業し

 

水戸金工の名工と謳われた父であった

 

海野勝珉、加納夏雄に師事しました。

 

その後35歳で東京美術学校の助教授に就任し

 

翌年、第9回帝展では「鸚鵡文金属小筥」が

 

特選を受賞しています。

 

それからは帝展、新文展の審査員を歴任し

 

40後半にはフランスに留学しました。

 

帰国後は勲三等瑞宝章を受賞したのち

 

東京芸術大学の教授や

 

日展運営会常任理事を務めています。

 

そして71歳のときに彫金の分野で

 

重要無形文化財保持者に認定されました。

 

晩年は全日本工芸美術家協会会長や

 

日本彫刻家会長を務めています。

 

 

 

【海野清の作品の特徴と技法】

 

海野清の作風に見られる大胆な表現は

 

伝統的な技法をベースにして

 

次々と新しい技法や表現方法を編み出し

 

革新的な創作活動を探求していることに

 

基づいていると言えるでしょう。

 

主に、獣や鳥、仏像、草花などをモチーフに

 

独自の構図と大胆な表現で作品を作り出し

 

作品は花瓶や置物、文具関係など種類は様々です。

 

また、海野清がフランスに留学した経験は

 

その作品に大きな影響を与えました。

 

伝統的な毛彫とフランスで学んだ技術を

 

ミックスさせた優雅な作品を生み出し

 

作品の一つ「観音」などは

 

その技術をふんだんに駆使して

 

金色に色めくとても美しい作品に仕上がっています。

 

その繊細なデザインは、鋭いたがねを使って

 

観音菩薩の柔和な表情を掘り出したもので

 

緻密な線引きは「素晴らしい」の一言に尽きます。

 

加えて、独自のタッチで

 

エレガントな美しさも演出しており

 

伝統的な手法と独自の手法を織り交ぜることで

 

新しい美の価値観や崇高な精神性をも

 

作品に刻み込みました。

 

 

 

【海野清の評価される所以】

 

海野清の彫刻家としての制作意欲は

 

その地位を確立した後も失われることなく

 

技術の追究、表現方法の探索を常に追い求めました。

 

フランスに留学したのちは、西洋の彫刻を学び

 

新たに立体的な造形を取り入れています。

 

その作品の数々は古典的な技法を踏襲しながらも

 

格式あるモダンな造形美の可能性を追求しており

 

新しい表現方法の探求は常に続けられました。

 

また、彫刻家としての制作活動だけでなく

 

帝展や新文展などの審査員として、後に続く

 

彫刻家の育成にも寄与しています。

 

日本彫刻家会長や

 

全日本工芸美術家協会会長なども歴任し

 

彫刻の発展に尽力しました。

 

 

 

加藤卓男【人間国宝/三彩】

加藤卓夫(かとうたくお)

 

1917年生まれの加藤卓男は

 

古代ペルシア陶器と日本の陶器の融合において

 

多大な功績を築いた陶芸家です。

 

28歳の頃に戦争で被爆し、白血病治療を経て

 

44歳でフィンランド工芸美術学校を修了しました。

 

その後は実力を発揮していき

 

6回日展で特選北斗賞を受賞、

 

また、50代でイランパーレヴィ王立大学付属

 

アジア研究所に留学した際には

 

ペルシア古陶発掘調査にも参加しています。

 

60代の頃には、宮内庁からの依頼で

 

正倉院三彩の復元などにも従事し

 

そのほかトルコのトプカプ宮殿美術館で個展を開くなど

 

海外での活動も積極的に行いました。

 

これらの功績によって、加藤は71歳で紫綬褒章を受賞し

 

78歳の時に三彩の分野で

 

重要無形文化財保持者に認定されました。

 

 

 

【加藤卓男の作品の特徴と技法】

 

加藤卓男の作品の魅力は何と言っても

 

その色彩の美しさにあります。

 

これは長年、古代ペルシア陶器の色彩や

 

独特の造形美を研究し青彩、三彩、ペルシア色絵を

 

追究してきたことからくるものでしょう。

 

その独創的な造形と青色を昇華させた作品は秀逸です。

 

加藤卓男が再現した技法の一つである「ラスター彩」は

 

イスラム陶器の一つで、スズ白釉を塗った素地を

 

銀や銅を用いて酸化させ、低火度で焼成し

 

美しい文様を描き出したものです。

 

元来、ラスター彩の技法は9世紀

 

メソポタミアで用いられたことをきっかけに

 

エジプトやイランに伝わった手法で

 

その陶器の表面に彩られた文様は

 

金属の持つ特有の輝きを最大限に引き出します。

 

ちなみに日本では、「虹彩手」、「きらめき手」などと

 

呼称されており、異民族のエキゾチックな文化と

 

日本の優美な芸術性が見事に融合し

 

新しい美しさを生み出しています。

 

 

また、加藤が得意とした「三彩」は、上絵付けに

 

鉛(白)、銅(緑)、鉄(黄)の3種類の釉を用いて

 

低火度で焼き上げた焼き物のことを指します。

 

必ず3色というわけではなく、高火度のものや

 

2色、4色のものも「三彩」と呼ばれ

 

一つの陶器に2種類以上の色彩が用いられる

 

華やかな陶器のことを指すのです。

 

中でも、唐から明の時代に作られた三彩は

 

「唐三彩」と呼ばれ代表的な「三彩」

 

そして日本の正倉院の所蔵する皿、鉢、壺などは

 

「奈良三彩」と呼ばれ、

 

その出来栄えから「唐三彩」と区別されています。

 

 

 

【加藤卓男の評価される所以】

 

加藤卓男が評価される点は

 

ペルシアから日本に広がった焼き物を体系的に実現させ

 

かつ独自の技術を会得し

 

その芸術性を高めたことと言えるでしょう。

 

正倉院の復元や古代のペルシア陶を

 

研究して再現するだけでなく

 

現代の陶芸家として斬新な

 

一つの境地に辿り着いた点が評価されています。

 

また、日本の陶芸展や国際的なコンペでも

 

審査員を務めたりと、加藤の陶芸界への貢献度は

 

非常に大きいものです。

 

陶芸界を長年リードしてきた存在とも言えるでしょう。

 

 

 

井上萬二【人間国宝/白磁】

井上萬二(いのうえまんじ)

 

1929年佐賀県西松浦郡で生まれた陶芸家井上萬二は

 

窯元を営んでいた父の勧めにより10代の頃から

 

13代目酒井田柿右衛門の元で働きました。

 

後に、奥川柿右衛門の門下生となって

 

白磁や轆轤の技法を習得していきます。

 

酒井田柿右衛門の窯を出た後は

 

有田窯業試験場の技官として従事しましたが

 

その間も独自の釉薬、意匠などの

 

研究を続けていきました。

 

 

1969年には、ペンシルバニア州立大学で

 

有田焼の講師として従事し

 

そのほかドイツで個展を開催したり

 

モナコ王国でも展覧会に出品するなど

 

海外でも精力的に活動しました。

 

また、日本国内では1987年に日本伝統的工芸展で

 

通産大臣賞を受賞

 

1995年には白磁の分野で

 

重要無形文化財保持者に認定されました。

 

そして2年後、68歳の時には

 

紫綬褒章を受賞しています。

 

 

 

【井上萬二の作品の特徴と技法】

 

井上萬二の「白磁」作品の特徴は

 

その形の美しさに象徴され

 

本人も「形そのものが美しさ」と捉えていました。

 

特に「白磁」は端正に作り上げることが一番難しく

 

井上自身もそのことを深く痛感していました。

 

単純な形ほどその人柄が出てくるもので

 

陶芸家の生き方や陶芸に対する魂のようなものが

 

試されると認識していたのです。

 

座右の銘には「名陶無雑」という言葉をかかげ

 

雑念のない作品の完成を心がけたことで

 

その作品は過度に装飾されておらず

 

端正な形をしたものが多く見られます。

 

 

また、一般的に釉薬は、粘土や灰を水に入れ

 

懸濁させたものが使われることが多いのですが

 

ガラス質のような陶磁器の表面の美しさを引き出す為の

 

釉薬の研究には特に力を入れていました。

 

 

このように井上の作品は、作品の基調を決める陶磁器の

 

表面のうわぐすりである釉薬や磁器の成形にこだわり

 

伝統的な技法を大切にしてその「白磁」が

 

本来持つ美しさを見事に引き出しています。

 

 

 

【井上萬二の評価される所以とは】

 

その無駄のない、極限までそぎ落とした

 

シンプルな「白磁」の形の美しさを追求している部分が

 

井上萬二の評価されるところでしょう。

 

「白磁丸型壺」に見られるような

 

大きく丸い形を成形するのには

 

実は相当な技術の修練を要します。

 

雑念を取り払い自己を厳しく突き詰めた

 

井上萬二がゆえに造詣できる名器と言えるでしょう。

 

 

また井上萬二は、海外でも高く評価されています。

 

海外展を積極的に行い日本の美を広める為に尽力をし

 

後進の育成にも力を尽くしています。

 

そのような地道な活動と陶磁器に対する真摯な姿が

 

強く人々の心を掴んでいるのでしょう。

 

 

 

河井寛次郎【人間国宝/文化勲章 辞退】

河井寛次郎(かわいかんじろう)

 

自身がきちんと納得のいく作品ができるまで

 

個展を開かないなど、強い信念を持って

 

作品を作り続けた河井寛次郎。

 

ここではその半生や作品の特徴を紹介します。

 

 

来歴

 

河井寛次郎は明治238

 

島根県安来市にて生まれました。

 

元々生家は大工を営んでいたのですが

 

寛次朗自身は中学の頃から焼き物の世界に興味を持ち

 

明治43年、東京高等工業学校窯業科に入学します。

 

卒業後は京都市立陶磁器試験場に技師として働き

 

大正9年には陶芸家の5代目清水六兵衛から

 

窯を貰うと同時に、住居も構え独立を果たしました。

 

また翌年には初個展も開き

 

中国・朝鮮の古陶磁の影響を強く受けた作品を発表します。

 

昭和30年には文化勲章を辞退。

 

同時に人間国宝の認定も退き昭和41年にこの世を去りました。

 

 

作品の特徴

 

河井寛次郎の作風は

 

次の3つの時代に大きく分かれると言われています。

 

一つが中国・朝鮮の古陶磁の手法を取り入れた時代です。

 

河井寛次郎自身が研究し、「寛」や「鐘渓窯」の押印。

 

箱には「鐘寛」や「鐘渓窯」と言った文字が

 

記入されているのが特徴です。

 

その次が、実用性は変わらず

 

生命の力強さを描いた作品です。

 

民芸の主唱者と知られている柳宗悦との交流が

 

その時代の作風に影響を与えたのでは、

 

と言われています。

 

もう一つが戦後昭和20年以降の

 

釉薬を使った色鮮やかな作品です。

 

それでいて重厚さもあり、今度は実用性よりも

 

自身の自由な創作性を重視している事で

 

知られています。

 

 

「暮しが仕事、仕事が暮し。」

 

中国・朝鮮の影響を受けた作風時代から

 

既に評判を呼び、

 

「名人芸」とも言われていた河井寛次郎。

 

力強い作品の数々を生み出す氏は

 

「暮しが仕事、仕事が暮し。」

 

と言う言葉を残しています。

 

自分の日常の一部として

 

モノ作りを行っているだけであって

 

何も特別な事ではないと言うのが

 

言葉の真相と言われています。

 

 

実際に重要無形文化財保持者や

 

文化勲章を辞退しているのは

 

そこに理由があるとも考えられ

 

後期の作品には自身の作家銘を入れていません。

 

 

 

なお河井寛次郎は京都にて作品を発表するようになり

 

自宅も建てています。

 

現在は「河井寛次郎記念館」となり

 

氏の辿ってきた道筋や作品が知れるようになっています。

 

 

 

北大路魯山人【人間国宝辞退】

北大路魯山人(きたおおじろさんじん)

 

料理人としても実績を残している

 

北大路魯山人について

 

来歴から作品の特徴などを中心に紹介します。

 

 

来歴

 

北大路魯山人は明治16年に、京都市にて生まれました。

 

また実家は京都でも最古とされる

 

上賀茂神社の神職を勤める家柄でしたが

 

父は自殺し母も行方不明となったため

 

幼少期は親戚の家に預けられて育ちました。

 

やがて小学校を卒業すると奉公に出され

 

明治36年には独立し

 

書家を目指していた北大路魯山人は

 

その翌年には日本美術展覧会で一等賞を受賞します。

 

 

また多趣味として知られた北大路魯山人の才能は

 

書だけには収まらず、食の趣味が興じ

 

美食倶楽部を設立しました。

 

そして食の趣味の一環で

 

料理に合う器を作るために作陶を始め

 

昭和11年に経営していた会社のやり方が

 

ずさんという事から追い出されたのをきっかけに

 

作陶作りに集中します。

 

 

作品の特徴と中国陶磁器

 

陶芸家としての北大路魯山人の特徴としては

 

中国や朝鮮・日本の古陶磁を基礎としたところです。

 

中国の陶磁器は見た目の華やかさがあると同時に

 

器のみならず動物や人物そのものを造形している作品など

 

多種多様な作風でアジアにまで影響を及ぼしました。

 

中国陶磁器は新石器時代から始まった

 

と言われていますが、やがて朝鮮でも作られる

 

鉄を含んだ釉薬によって青く発色した青磁も

 

中国の陶磁器から生まれたと言われています。

 

日本の陶磁器は縄文時代から始まっており

 

ここに釉薬が塗られたのは

 

奈良・平安時代とされているので

 

中国での陶磁器制作は世界的にも発展していました。

 

魯山人はこの中国陶磁器に着想を得ながらも

 

非常に自由で

 

また優れたセンスが反映された作品を制作しました。

 

また作品数は20万点以上もあると言われおり

 

あくまで趣味の一環として作っているものだったので

 

幅広い表現技法が見られます。

 

 

魯山人の師

 

北大路魯山人の師となるのが初代須田菁華です。

 

初代須田菁華との山代温泉での一年間の修行は

 

「器は料理の着物」と言う言葉を残す

 

北大路魯山人の哲学の基礎となります。

 

初代須田菁華は

 

石川県の金沢の商家として生まれ

 

染付や古九谷など多くの模古作品を生み出しています。

 

 

食がベースでもある魯山人の作品

 

北大路魯山人は陶芸家としてより

 

美食家としての側面に焦点が当たりがちですが

 

それはその分食に関して様々な面で貢献してきたからです。

 

例えば料理人として、また経営者としても

 

高級料亭「星岡茶寮」を切り盛りしています。

 

 

食について追求してきたからこそ

 

器について考えるようになり

 

北大路魯山人の生み出した「色絵金彩椿文鉢」や

 

「於里遍平鉢」は、まさに

 

「器は料理の着物」の言葉に納得できる

 

色鮮やかな作品となっています。

 

 

バーナード・リーチ【文化勲章】

バーナード・リーチ

 

日本で活躍したイギリス人陶芸家

 

バーナード・リーチの作風の特徴と技法を

 

ご紹介していきます。

 

 

来歴

 

バーナード・リーチは明治20年に香港で生まれました。

 

誕生直後に母親が亡くなったため

 

京都に住んでいる祖父に引取られ

 

以後4年間を日本で過ごします。

 

それから10年後の明治30年にイギリスに渡り

 

エッチングと言う銅版画や彫刻

 

陶磁器などに使われる技術を学んでいます。

 

 

また、幼少期を過ごした日本のことを

 

忘れていなかったバーナード・リーチは

 

明治42年に日本に渡り

 

培ったエッチング技術を通して

 

柳宗悦に代表する白樺派と交流を深めました。

 

そして11年後となる大正9年には

 

イギリスに帰国し、そこで登り窯を作ります。

 

 

作風とその歴史

 

バーナード・リーチの作品の特徴は

 

柳宗悦が確立させた「用の美の精神」を

 

根底としながらも

 

スリップ・ウェアやガレナ釉を用いて、

 

イギリスの文化を色濃く投影させている所

 

にあると言われています。

 

また高い素描き技術もあり

 

陶磁器には洗練されたデザインが描かれており

 

そのため品の良さが

 

氏の作品にはあると言われています。

 

バーナード・リーチは自身の作品の事を

 

「東と西との結婚」としています。

 

足繁く通った日本の地方の焼き物の作法に

 

イギリスで培われた文化や技法を交えて用いました。

 

特にその中で取り上げられるのが

 

大分県日田市小鹿田地区発祥の小鹿田焼です。

 

小鹿田焼では飛び鉋や櫛描き

 

刷毛目と言った技法を用います。

 

昭和29年に3週間ほど

 

小鹿田地区に訪れたバーナード・リーチは

 

小鹿田焼による作品を発表しています。

 

これがメディアに取り上げられると

 

小鹿田焼はたちまち注目され

 

その知名度に大きく貢献しました。

 

 

また氏が称賛された部分として

 

もう一つ取り上げられるのが集団の作品作りです。

 

柳宗悦と出会った影響で

 

作品は一人で作ると言った従来の考え方ではなく

 

他の作家達と共同で作業すると言うことを学び

 

量と質の2つを両立させてきました。

 

 

精神と技法
「用の美の精神」とは

 

陶磁器は観賞用として存在するのではなく

 

誰もが手に入りやすく

 

生活の中で使いやすく、馴染めるもの。

 

言わば日用品として

 

上質なものを作るべきと言った信念です。

 

 

飛び鉋について

 

飛び鉋は生乾きの状態の素地を回転させながら

 

化粧土を削って模様を付けます。

 

なお回転の速度などでも模様の形が変わります。

 

 

櫛描きについて

 

櫛描きもまた素地に模様が付けられる状態の内に

 

櫛状の道具を用いて波形の曲線を引いていきます。

 

 

スリップ・ウェアについて

 

化粧がけとも言われる焼成技術の事です。

 

水と粘土で作った泥漿を文様として掛けます。

 

またその上から鉛釉(ガレナ釉)も掛け低温度で焼きます。

 

イギリスやドイツで代表される陶磁器でもあり

 

「用の美の精神」を体現しているとも言われています。

 

 

 

 

バーナード・リーチは昭和36年に

 

文化勲章受章を受賞しています。

 

その2年後に氏は亡くなりますが

 

日本にいる時は後輩の指導にも力を入れており

 

大きな功績を残しました。

 

バーナード・リーチの思想は

 

後年の作家達にも伝えられています。

 

 

 

川喜田半泥子【文化勲章】

川喜田半泥子(かわきたはんでいし)

 

三重県を代表する文化勲章受章者である

 

川喜田半泥子。

 

ここでは氏の来歴や

 

作品を中心に紹介します。

 

 

来歴

 

川喜田半泥子は明治1111月に

 

三重県津市にて生まれました。

 

また実家は三重県の中でも偉大な地位を持ち、

 

200年以上の歴史がある豪商として有名です。

 

そう言った、不自由なく文化に接する事の出来る

 

環境もあってか、川喜田半泥子は

 

経済や芸術、食関係にも精通しており

 

交友関係も広かったと言われています。

 

もちろん陶芸にも造詣が深く

 

幼少時から、古くから使われている茶道具で

 

茶を飲んでいた事が

 

陶芸家としての原点とも言われています。

 

また、川喜田半泥子は企業人としても

 

功績を残しました。

 

様々な世界経済の危機を

 

三重県津市に構える百五銀行の重役として乗り切り

 

さらに県議経験もあります。

 

なお陶芸家としての実績も称えられていますが

 

彼自身は陶芸を趣味と捉えており

 

販売などは行っていません。

 

 

作品

 

販売を前提としないのもあってか

 

川喜田半泥子の作品の特徴は

 

自由で何も縛りがなく、独創性に富んでいる

 

と言われています。

 

また使っても飽きる事がなく

 

色使いやラインが穏やかで

 

川喜田半泥子自身の性格を

 

反映しているようだとも言われます。

 

代表作としてはまず

 

『麗手茶碗 銘 雅茶子(がちゃこ)

 

を取り上げる事が出来ます。

 

上野動物園のゾウの花子の足に似ている事から

 

花子がタイにいた時の名前

 

(ガチャコ)から命名しています。

 

他には『黒織部茶碗 銘富貴』

 

『刷毛目茶碗 銘 これはこれは』などがあります。

 

 

技法

 

川喜田半泥子は自宅に窯場を作り

 

様々な陶磁器をベースに技法を組み合わせて

 

作品を作りました。

 

例えば薄い黒無地の茶碗である瀬戸黒。

 

佐賀県北西部発祥である唐津。

 

朝鮮王朝時代に生まれた粉引など。

 

それらに色絵や刷毛目などの技術を織り交ぜました。

 

 

 

 

川喜田半泥子は昭和38年10月に息を引き取りましたが

 

陶芸作品にみられるその自由な作風の理由は

 

元々が陶磁器のみに縛られた制作活動ではなく、

 

様々な文化に触れやすかったからとも考えられます。

 

 

 

板谷波山【文化勲章】

板谷波山(いたやはざん)

 

板谷波山はアール・ヌーヴォーの様式を

 

陶磁器に取り入れた文化勲章受章者です。

 

昭和初期には長寿祝いとして

 

故郷の高齢者全員に鳩杖を作り贈呈。

 

また日中戦争や太平洋戦争の戦没者の遺族の為に

 

白磁香炉や観音像も作って送っています。

 

ここではそんな板谷波山の来歴と作風

 

そしてよく見られる技法を中心に紹介します。

 

 

 

来歴

 

板谷波山は明治53月に

 

茨城県下館市にて生まれました。

 

元々は醤油醸造業を営んでいる家ですが

 

父の善吉が風流と言って

 

品の良い文化や陶磁器などを楽しんでいました。

 

明治22年には東京美術学校彫刻科に入学。

 

卒業してからも石川県工業学校にて

 

彫刻科教師として働くなど

 

陶芸とは無縁でしたが、明治31年に

 

彫刻科が廃科になった事により

 

陶芸の研究を本格的に行いました。

 

明治39年には三方焚口の倒焔式丸窯を作り

 

陶芸家として基盤が整います。

 

 

陶芸家としての主な経歴の一部としては

 

明治40年東京勧業博覧会にて三等賞を獲得。

 

独自の作風は支持され続け

 

昭和4年には文部大臣認可の

 

帝国美術院会員となり

 

昭和28年には文化勲章を受章ました。

 

陶芸家としては初めての文化勲章となります。

 

そして10年後となる昭和38年に

 

この世を去りました。

 

 

 

特徴

 

板谷波山の作品は釉下彩や

 

薄彫図柄の技術葆光彩磁などによ

 

り端正でまた気高い気品があると言われています。

 

さらに日本の技術に乗っ取った絵付けは行わず

 

アール・ヌーヴォーの様式を採用したり

 

また東洋の意匠や造形とも融合させた

 

自由な作風が特徴となっています。

 

 

 

技法

 

板谷波山の作品でよく使われる

 

3つの技法について説明します。

 

 

アール・ヌーヴォー

 

19世紀末に欧州エリアから広まった主流のことで

 

流れるようなタッチで植物などを描いています。

 

 

葆光釉(ほこうゆう)

 

葆光釉は今までの透明釉だった彩磁とは違い

 

炭酸マグネシウムによる

 

透明ではないシルクのような釉の事を指します。

 

板谷波山はその葆光釉を

 

独自に編み出しました。

 

その表現からは柔和かつ一種の冷たさも感じられる

 

と言われており

 

動植物を器に配した事もあって

 

洋画らしい作品世界が表現できる

 

と言われています。

 

 

釉下彩

 

釉下彩とは素焼きの生地に

 

絵付けをする技法のことです。

 

染付や鉄絵、釉裏紅なども有名で

 

絵画の作品でも見られる手法でもあり

 

「瓢池園」が有名です。

 

上絵付とは違って高温で一気に焼き

 

また素焼きの状態だと凸凹しているため

 

繊細な絵付けは難しく、まして焼成に耐えうるのも

 

困難と言われています。

 

しかし板谷波山はこれらの課題をクリアし

 

色鮮やかな作品を作り上げました。

 

 

 

 

 

現在、板谷波山の作品は

 

板谷波山が住んでいた家を改築した

 

板谷波山記念館で見ることが出来ます。

 

また作品を収集していた夫妻が亡くなったのを受けて

 

その長女が市に寄贈しています。

 

地元に根付いた活動を行っていた功績が認められ

 

板谷波山は現在でも人々に親しまれています。

 

 

 

1 / 912345...最後 »
ご相談お気軽にお問い合わせください

買取品目

買取品目

LINE査定・WEB査定
買取専門店KURAYA
査定・買取依頼する
簡易WEB査定