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2020.01.23
ブランド品

鴨居玲【洋画家】

鴨居玲(かもいれい)

 

鴨居玲は19282月に石川県金沢市で生まれました。

 

18歳の時に金沢美術工芸専門学校予科に入り

 

その時から既に洋画を習っていたものの、

 

疎開していた際の戦争記録画や舞妓、裸婦が有名な

 

洋画家の宮本三郎から、指導を受けます。

 

在学中には1948年の二紀会において出品した

 

『青いリボン』により初入選となり、

 

その後も二紀会への出展は続き、2年後の1950年に

 

金沢美術工芸専門学校予科を卒業すると同時に

 

二紀会の同人に推薦されました。

 

また同年には東京の乃村工芸社に就職し

 

そこでは看板を手がけます。

 

そして1952年には芦屋・田中千代服装学園に

 

講師として務めながら作品制作を続けると

 

充実した人生のように見えるものの、

 

本人の生活は不安定で精神的にも

 

落ち着きがなかったようです。

 

1959年、30代になるとフランスに渡り、

 

その二年後に帰国すると同時に二紀会を辞めるものの

 

以降も続く海外への旅行は、無くなっていた

 

作家としての自信を取り戻すと同時に、

 

自身の方向性を定める為の物でもありました。

 

こうして1968年には『静止した刻』により

 

安井賞を受賞し、名が広がります。

 

その後も作家として活躍しますが

 

精神は不安定なままで何度も自殺未遂を図っており

 

19859月、57歳の若さで自身で命を絶ちました。

 

 

 

作風

 

鴨居玲はただひたすらに人間の暗い内面を

 

描き続けた事で知られています。

 

それらの作品はおぞましく、

 

見ているものをその世界に引きずりそうなほどの

 

存在感に溢れています。

 

また父親が新聞記者であった為住む地を転々とし

 

各地の貧困者をベースにしたのも

 

作品のテーマとしてある模様です。

 

なお一つの作品を手がけるのに

 

100枚以上のデッサンを描く徹底ぶり、

 

というような側面も知られています。

 

最初のパリ旅行で交流のあった、

 

とても清らかな色彩感覚の静物画を描いた

 

金山康喜の作品を見てから

 

その方向性が定まったそうですが、

 

自身の内面性を描いていると言うそれらを描くのには

 

相当な覚悟もあったと考えられます。

 

 

 

関連用語の細かい解説

 

二紀会

 

元は戦前にあった二科会がベースとなっています。

 

戦時により一時解散となっていたのを

 

1945年に再び立ち上げる際、

 

二科会の活動に違和感のあった栗原信や

 

黒田重太郎などの9人により別途に創られました。

 

なお二紀会の信念には流行に流されず、

 

新しい価値を見出すと言うのがあるので

 

鴨居玲が迎えられたのはその為とも考えられます。

 

 

 

生について悲しみを抱いていた鴨居玲

 

鴨居玲は常に生について

 

悲しみを抱いていたと言われています。

 

鴨居玲は多数の世に出ていない芸術家の発掘に

 

力を注いでいた評論家の坂崎乙郎と親交が深く、

 

それぞれの自殺の仕方について語っていたようです。

 

(なお坂崎乙郎も鴨居玲が亡くなった後、

 

自ら命を絶っています。)

 

また鴨居玲は心臓に病を抱えていたのもあり

 

その分生きる事自体が苦しかったのかもしれません。

 

そして亡くなる三年前となる1982年には、

 

自身の集大成と言える『1982年 私』と

 

『蜘蛛の糸』を世に出しています。