高橋泥舟は1835年3月に江戸で生まれました。なお本名は政晃と言います。父が江戸時代の将軍と繋がりのある旗本であり、また生家は槍の武術で名を馳せた自得院流の名門です。それもあって高橋泥舟は兄と共に槍の修練に励み、そこで磨いた武術は武士として活躍していくにあたり大きな弾みとなっていきました。
その後20代になる頃には講武所槍術教授として務め、その6年後には師範役になります。また江戸幕府の公式な警備隊となる新微組を設立し、1863年には徳川慶喜の護衛を行うようになりました。以降は槍術の後進指導役的な立場を担い、徳川慶喜の護衛としては、1868年に勃発した鳥羽・伏見の戦い後にも継続して、長い間警護を担当しています。
同年の明治維新によって幕府が解体された後は、書について励むようになり、1903年2月、69歳で息を引き取りました。
高橋泥舟は伏見の戦いで破れた徳川慶喜に、恭順であることを解き、そして支え続けました。また勝海舟や山岡鉄舟と並んでその時代に大きく貢献したと言うことで、幕末三舟と呼ばれていますがその言われは明治維新後です。
武士として、幕臣として、高い功績をのこしましたが、廃藩置県もなされた明治維新ののちは役人として勤めてはおらず、海内無双とも呼ばれた槍の師範時代とは変わり、最盛期に比べると、晩年は書画の鑑定などをして静かな日々を送ったと言われています。
“幕末三舟”と称された所以は、ほかの2名、勝海舟や山岡鉄舟それぞれにもありますが、高橋泥舟の場合は徳川慶喜が重要事にあたる際にその警護に回った事。
なお勝海舟や山岡鉄舟とも深い繋がりがあり、勝海舟が西郷隆盛と話し合いの場を設けた時には、高橋泥舟が使者として使命されました。この時は主君のそばを離れることを懸念した高橋泥舟が義弟の山岡鉄舟にその役を引継ぎましたが、山岡鉄舟も充分にこの任務を務めあげたといいます。
代表作
1903年に出された『泥舟遺稿』。
また1912年に発表された『高橋泥舟翁事歴』は、高橋泥舟を知るための参考文献としてよく読まれています。
■徳川慶喜
1837年に生まれた徳川家最後の将軍です。
1866年に15代として徳川家を任されますが、徳川家が主に務めていた江戸ではなく京都にて名を馳せていきました。また以前ほどの権威は無くなっていた徳川家の事も考えて、1867年に大政奉還するなどをしました。