彫刻家高村光雲は、江戸下谷(台東区)で
1852年に生まれました。
父親から大工になるように勧められますが
11歳のときに仏師高村東雲の徒弟となり
木彫の修行を積んでいきます。
やがて1887年には、皇居化粧の間の
装飾彫刻を担当するまでとなりました。
同年には内国勧業博覧会に「白衣観音」を出品し
最高賞の竜紋章を獲得しています。
30代後半からは東京美術学校に勤務し始め
翌年、1890年頃には彫刻科の教授に就任となりました。
そして同年、帝室技芸員に任命されています。
その後も自身の制作活動を続け、
1893年にはシカゴ万国博覧会に「老猿」を出品し
妙技二等賞を受賞しました。
また、1900年には、パリ万国博覧会に「山雲訶護」
「盲人川を渡る」を出品して
それぞれ金賞、銀賞を受賞します。
その他にも上野恩賜公園の西郷隆盛像や
皇居前広場の楠公像などを制作し、74歳のときには
東京美術学校の名誉教授になりました。
高村光雲の、古典的な木彫技術に
西洋美術から得た写実的な彫刻表現を合わせた作品は
近代彫刻の時代を切り開きました。
高村光雲の代表作である「老猿」は
明治期以前によく用いられてきた
猛禽類の鷲や鷹に襲われる
弱者の立場の猿とは対照的に、
とても力強い猿として表現されています。
猿の手には鷹の羽根が握られており
弱者が強者を倒す姿が表現されています。
この作品がシカゴで開催された
万国博覧会に出品された時代背景も
少なからず作品にも影響しており、明治維新を経て
欧米列強国や大国であった中国などの間で
生き抜いていく日本の気概を猿に見立てて
暗示しているとも言われています。
このように高村光雲の精神が込められた作品は
力強い表現と精緻な技術も合わさり、
見るものを惹きつけます。
高村光雲の作品の多くは
西洋彫刻の尺度だけでは計れない
置物彫刻的な要素も残しており、西洋彫刻に見られる
単に写実的で細密描写な作品にとどまっていません。
モチーフの細部の表現には
独自の擬人的な表現も織り交ぜています。
技法、表現の双方において
様々な要素を融合させた表現は
世界的にも高く評価されており
木彫界の重鎮としての地位を確立しました。