高村光太郎(たかむらこうたろう)
高村光太郎は1883年3月に東京にて生まれました。
父は西洋彫刻の写実性を取り入れた
著名な彫刻家・高村光雲として知られており、
高村光太郎も幼い頃から
伝統的な木造彫刻の基礎を学んでいます。
その後1897年に東京美術学校塑科に入学しますが
この時点で洋画や彫刻について学ぶと同時に
既に文芸雑誌のスバルや、詩歌雑誌の明星で
短歌を発表していました。
また近代彫刻の父と言われている
オーギュスト・ロダンについても学び、この経験は
作品制作の根底の一つにもなっていきます。
1902年に同校を卒業してからも
研究科に所属していましたが、1906年には
美術評論家の岩村透がきっかけとなり、
アメリカやロンドン、パリなどを渡り歩きました。
またそこで『文覚』や『デスペア』が知られている
荻原守衛や、親日家として知られている
画家のバーナード・リーチと知り合います。
30代の時には後に妻となる智恵子と出会うと
同時に詩集の『道程』を発表し、芸術院賞を獲得。
やがて智恵子と結婚しますが、
1941年には亡き妻智恵子との出会いから
別れまでを綴った『智恵子抄』を発表しました。
70代に差し掛かる頃には
十和田湖国立公園指定15周年を記念して、
1953年に『乙女の像』を制作。
この『乙女の像』は智恵子をモデルにしており
彫刻作品としてはこれが最後の遺作となり
1956年4月に息を引き取ります。
作風
高村光太郎の作品は、
オーギュスト・ロダンによって
近代的造形の影響を受け、
また高村光雲から教え込まれた伝統的な技術が
組み合わさった、今までの彫刻のレベルを
一段と上げたような作品が特徴的
と言われています。
作品は『手』や『裸婦坐像』が有名なほか
『蝉』に『鯰』や『桃』と言った
木彫りも手掛けています。
しかし父の影響を受け継ぎながらも
考えには溝がありました。
父の高村光雲は作家性があると言うよりも
職人として作品で生計を立てており、
また懐疑的な日本のやり方にも
高村光太郎は反していたため
血縁関係のある人達からも、
良い目で見られていませんでした。
こうして高村光太郎は当時の退廃的な
芸術の影響もあり、自身の生活も
廃れるようになります。
しかし、智恵子と出会った事で心が救われ
作品制作に没頭するようになりました。
■オーギュスト・ロダンについて
造形の再現に拘っていたこれまでの彫刻に対し
対象物の内面を描く事を重視した事で
知られています。
それまで建築物における脇役的存在でしたが
代表作「考える人」のように
全面的に主役になれる作品として存在感を示し
彫刻界に新風を巻き起こします。
また弟子や恋人としてなど、強い関係を結んだ
カミーユ・クローデルをモデルにした作品も
有名です。
亡き妻智恵子を中心に過ごす
高村光太郎は亡き妻智恵子への忠誠の愛が
よく取り上げられ、また作品や生き方にも
それが反映されています。
『智恵子抄』の発表直後、その直後に起こった
日中戦争を称賛する詩集を発表。
戦争によってそう書かれされたのではなく
高村光太郎自身に戦争を称賛する気持ちがあり
それで発表したと言われています。
またそれは智恵子が亡くなった事で失われた、
制作へのモチベーションの代わりとも
指摘されています。
しかし、日中戦争が終わると
戦争を称賛していた自身を恥じ、山の中に籠もり
自らを罰するように、
敢えて劣悪な環境で過ごしました。
そして十和田湖国立公園15周年の作品制作の為に
高村光太郎を知る人達の働きによって
その劣悪な環境下での生活を終了させました。
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