高崎正風(たかさきまさかぜ)は1836年7月に鹿児島県で生まれました。父は薩摩藩士の高崎温恭ですが、薩摩藩のお家騒動である“お由羅騒動”に巻き込まれ切腹。当時まだ10代前半であった高崎正風は1850年に鹿児島県の奄美大島に流罪となったのですが、そもそも父が冤罪であった事も起因してか、数年後には薩摩に帰る事となりました。
帰郷後、1862年には、藩主の島津忠義の父・島津久光による倒幕派を倒す考えに賛同し、高崎正風は京都へ赴きます。現地では長州藩を討つために奔走し、会津藩との密約・薩会同盟の中心人物となるなどして活躍すると、京都留守居役の任を任されました。
やがて明治維新後となる1871年には一新された政府内にて働き、また岩倉使節団の一員としてヨーロッパにも渡っています。39歳となる頃には侍従番長となり次の年には宮中の和歌に関することを一任する歌道御用掛の職に就きました。また、そこから薩摩藩士の八田知紀に歌について教わっていた高崎正風は、1888年には御歌所初代所長を務めると言ったように、歌人としても活動を行っています。
晩年は國學院の初代院長や枢密顧問官など要職を歴任し、1912年、75歳で息を引き取りました。
高崎正風は明治維新までは、政治家としての活動に目立つ所があります。
島津久光は倒幕派の長州藩を強く敵対視しており、高崎正風はその長州藩の活動を強く制限させる事に成功。その決定日となる公武合体派による倒幕派追い出し運動が起こった、1863年8月18日に因んで8月18日の政変と呼ばれています。ちなみに、この間に前述の薩会同盟が結ばれました。
しかしその後、薩摩藩が倒幕へと舵を転換する事となり、倒幕派と幕府側の対立となる戊辰戦争として発展しても、高崎正風は倒幕に対して反対の立場を通しました。明治維新後に歌人として活躍してからは、明治天皇の為にも、10数万首の歌に携わってきています。また桂園派復興の象徴的存在となり、その歌は洗練されているかつ上品な作風が持ち味と言われています。
明治維新後の1878年に初代内閣総理大臣となる大隈重信に宛てた書や、浄土真宗の僧である大谷光尊、侯爵の中山孝麿から高崎正風に宛てたものが発見されています。
また高崎正風が息を引き取った後の1926年に1265首分選定され、まとめられた『たづがね集』があります。
代表作
1876年に発表の上下2巻構成となる歌集『埋木廼花』(祐徳稲荷神社が所蔵)。
高崎正風の人づての話しを書き集めた、1901年発表の『高崎正風演説筆記』などがあります。
■島津久光
1817年に生まれ、父は鹿児島藩主の島津斉興で母は側室のお由羅の方です。
政権を実質的に操る人物となり、公武合体を考え政治の一新に成功します。また大久保利通や西郷隆盛に政府を任せるようになります。
■八田知紀(はったとものり)
1799年生まれで薩摩藩士であると同時に歌人です。京都藩邸にて歌を教わり、調べの説を唱え古今風を大切にする桂園派歌人の一人となります。
明治維新後は、宮内省内にて歌道御用掛として務めました。
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