長谷川路可(本名は龍三)は、1897年に東京で生まれました。その後、小学校を経て暁星中学に入学すると、在学中にキリスト教の教えを受け入信しています。また、詩人の三木露風と出会い交友を深め、一方で学校での授業が終われば、黒田清輝の開く研究所にて西洋画を教わる日々を過ごしました。長谷川路可はこれをきっかけに絵の制作に打ち込んでいき、中学校卒業後は東京美術学校日本画科に進学。1920年の第2回帝国美術院展覧会では、作品『ジェロニモ次郎祐信』で初入選を獲得します。日本画家の松岡映丘について大和絵をはじめとした技法を教わり、1921年に同校を卒業しました。
卒業後ヨーロッパへ遊学した長谷川路可は、現地の展覧会に作品を出品。連続して入選し、その後は日本の各大学教授からの依頼を受け、現地の壁画や美術館、博物館に所蔵された作品の模写を行っていきます。また、フランスで行われた国際博覧会の日本館の企画に協力したのちには、シュバリエ・レオポール2世勲章を授かりました。大量の模写作業を終えると、フレスコ画についても学んだ後に帰国。翌年には東京の聖堂内に日本初のフレスコ壁画を手掛け、以降、各地でフレスコやモザイク壁画を制作していきます。師である松岡映丘が開く新興大和絵会や、帝国美術院展覧会内でも作品を発表していきました。
40代から50代にかけては文化服装学院や文化女子短期大学で教鞭を執り、1950年に再び渡欧。イタリアで日本聖殉教者教会の壁画と祭壇画の制作に着手し、60歳の時に帰国すると、各校で美術の授業を受け持ちながら、油絵科の学生達などと共に壁画集団F.M.を設立しています。
1964年には東京オリンピック競技場内にて学生と共に、対の作品『勝利(野見宿禰像)』と『栄光(ギリシャの女神像)』を製作。1965年には日本美術家連盟の理事を務め、同年には長崎の日本二十六聖人記念館内にてフレスコ画『長崎への道』を手掛けました。
そして1967年、ローマ法王パウロ6世からの招きでローマに出向いている途中、69歳で息を引き取っています。
長谷川路可はこの様に、国内外で数多くの壁画を手掛けているのが特徴で、国内のフレスコやモザイク画の草分け的存在とされています。
作家名の路可はキリスト教の教えを受けた際の洗礼名ルカに起因しており、卒業後にヨーロッパで学んで帰国してからの10年間は、神奈川県の藤沢市を制作拠点としていました。
学生時代は東京美術学校日本画科に通っていましたが、油絵にも興味を持ち欧州に渡り、日本画の技術を活かした作品は現地でも注目を浴びています。
生涯を通して、日本画、油彩画、フレスコ画と様々な方法で描いた作品を生みました。
1951年から着手した、ローマの日本聖殉教者教会聖堂内のフレスコ壁画『日本二十六聖人』は、1959年に完成し、その事が起因して次の年に菊池寛賞を受賞しました。
また同じローマ内のウルバノ大学にて『聖ザヴェリオ』を手掛けると言ったように、ローマ内でも認められていきました。
代表作
1921年頃に描いた『自画像』や『イタリアの想い出』を藤沢市が所蔵。
■フレスコ画
壁に漆喰を塗って、乾いていない段階で顔料を塗り、絵を完成させていく製作技法です。
紀元前6世紀からその歴史があることが判明しており、様々な教会内で採用されていきました。
製作者は一日で描ける部分を想定して漆喰を塗らなければいけないなど、独特な技法が求められます。
■モザイク画
石やガラス、タイルに、木や金箔などを使って壁画を作成する技法です。
紀元前35世紀頃からその存在が確認されており、立体物にも使われ聖書の内容を知らせる為に機能しました。
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