長三洲(ちょうさんしゅう)は1895年3月に豊後国(現在の大分県)で生まれました。この“三洲”は号のひとつですが、このほか長炗(ちょうひかる)の名でも知られています。
長三洲の父・長梅外は医者であると同時に漢詩人として知られていました。その父から幼少期より教えを受け、また15歳になると儒学者・広瀬淡窓の開く咸宜園に入門。そこで腕を磨き、約3年後には広瀬淡窓の弟・広瀬旭荘の塾にて、塾長として指導にあたったと言われています。
長三洲は書画や篆刻、詩の制作を得意としていましたが、20代中頃になると尊王攘夷運動に加わるようになりました。高杉晋作率いる奇兵隊に加わり、外国の艦隊との合戦も経験したほか、1868年に起きた戊辰戦争でも戦っています。
その後、明治維新以降となる1870年に東京に出ると、太政官制度局の官僚として務めることとなり、約2年後には文部官僚となりました。在任中には咸宜園で学んだことをベースに、初の近代学校教育制度を起草し、日本の学校教育制度の基盤を形作っていきます。以降も要職を歴任していきますが、40代中頃になると官職から離れ、詩文書画の制作に時間を割いていきました。
晩年は斯文学会の設立や漢詩を題材とした雑誌の発行に尽力し、1895年、62歳で息を引き取っています。
書家としての長三洲は、中国唐時代の書家・顔真卿風の作品を好み、学んでいました。そして詩はシンプルながらも品の良さが感じられ、なおかつ広瀬淡窓から学んだことが十分に発揮されています。一方で、水墨画や木や石などを使う篆刻でも、優れた腕前を発揮しました。
また漢学にも優れており、明治時代前半の教育界を代表する人物として洋学の福澤諭吉と並び、漢学の長三洲とも称されています。
なお近代学校制度の中で、習字を定着させたのも長三洲によるものとも言われています。
『新封建論』は長三洲の著書が元となっており、政治家の木戸孝允が行いたかった廃藩置県を成功させる要因になったと言われています。
そのほか『復古原論』は神日本磐余彦(古事記上での名前)を初代・天皇とした日本の歴史の始まりから述べ、王政復古の必要性を語っています。
他の著書
『三洲遺稿』は1909年に5冊11巻の構成で出ました。
1894年発表の『楷書天地帖』。1895年に出した行書の習字用の『行書孤憤帖』。
『明治漢詩文集』などがあります。
■広瀬淡窓
1782年生まれの江戸時代後期に活躍した、漢詩人家であると同時に儒者、教育者です。
幼少期から漢学や漢詩を教わっており、咸宜園の前に寺の学寮にて塾を設けています。
■高杉晋作
1839年生まれの勤王家です。吉田松陰の下で学び奇兵隊を結成。討幕運動を起こし第二次長州征伐の幕府軍に勝利すると言った活躍を見せます。