金重利右衛門は備前焼職人です。この名前は襲名制で、1729年に岡山藩主より、初代が陶工として認められて以降、現代まで受け継がれています。
岡山藩は当時、備前国と呼ばれる地域一体を有しており、備前藩とも呼ばれていました。ここでは古墳時代にはその原型が出来上がっていたという備前焼が焼かれており、江戸時代にはその保護を目的として藩が窯元を統合し、窯元六姓という体制が出来上がりました。その中でも長い歴史を持つ金重家の総本家とされているのが、金重利右衛門の受け継ぐ金重利陶苑です。
現代まで何人の当主がいたのかは明確ではないようですが、少なくとも御細工人として見定められた初代金重利右衛門が1767年に亡くなった以降も、金重利右衛門の名は藩からも大切に扱われ、献上品や他藩や大名への贈り物を手掛けていました。この古い歴史を示すように、当主には代々「七十七代目金重利右衛門」の名が受け継がれているそうです。
その後、廃藩置県によって藩が廃止となったのちも、1902年に亡くなった金重久一郎の代までは「御細工人」の肩書を授かっており、明治期に入り備前焼の衰退が危ぶまれた際には、備前焼の硬さや丈夫さを活かした土管の製造事業で成功。昭和時代には世界大戦時の戦艦の部品製作や武器製造など、器や置物以外の用途でも備前焼を活かし、現在まで250年以上、金重利右衛門の名を受け継いできました。
昨今、金重利右衛門は総本家窯元として、有限会社金重利陶苑の体となっており、後進の育成にも務めています。
備前焼は、日本で昔から存続する6つの窯を指す、日本六古窯の一つに数えられるもので、その中でも最古の歴史を誇ります。
釉薬や絵付けと言った作業は行わず、土の特性がダイレクトに現れているのが特徴的です。そのため仕上がりは純朴な雰囲気となり、堅牢性もある事からツボやお椀にお皿など、様々な用途で使用されてきました。
現在知られているような形になったのは江戸時代の頃と言われており、窯の保護や茶器・置物としての製造が成される前の時代には、日常的に使用される甕や皿、瓦などの製造が主だったと言われています。廃藩置県後は藩への献上品の制作などもなくなり、欧米文化伝来の影響を受けながら衰退傾向にありましたが、昭和前期に人間国宝となった金重陶陽の活動によって見直され、以降も多くの備前焼作家が生まれています。
養子と言う形で金重家に入り、77代目金重利右衛門として受け継ぎその名を当時、広く伝えることに成功した金重稔。
1948年に生まれ1975年に金重利右衛門に弟子入りをし、備前市指定無形文化財となった川端文男。
1969年に生まれ1988年に金重利右衛門から学ぶようになり、2000年に独立を果たした宗高健三などがいます。