西郷孤月(本名:規)は1873年9月に生まれました。将来食べていくのに困らないようにするため、東京英語学校で学んでいたものの、1888年に江戸幕府の奥絵師でもある狩野友信から日本画を学ぶ事で、画家としてのキャリアをスタートさせています。
1889年に東京英語学校で共に学んでいた横山大観と下村観山と一緒に、東京美術学校に一期生として入学。1894年に卒業するものの、東京美術学校の教授である橋本雅邦の勧めもあって、研究科へ進学します。
さらに卒業制作で描いた『俊寛鬼界ヶ島ニ決別ノ図』は宮内庁が購入すると言ったように頭角を示し、東京美術学校を立ち上げ2代目校長となる岡倉天心の薦めにより、旧日本陸軍の師団となる近衛師団の下で、日清戦争の様子を写生。また日清戦争の写生からの帰国後には、東京美術学校の助教授となり、1897年に日本絵画協会おいて『四季花鳥』などが銅牌となるなど、その才能によって大いに活躍していきました。
20代半ばの頃には1898年に岡倉天心の立ち会いのもと橋本雅邦の娘と結婚しますが、同年に東京美術学校の騒動に巻き込まれ辞任。約3年後には離婚となり、以降は1902年に院展にて出品した『日連』が院展最後の作品となったほか、仲間が離れるなど低迷していきます。
1904年には自身の新たな作風を見出すために様々な場所を転々としていきますが、1912年8月、40歳の時に息を引き取りました。
西郷孤月は水墨の漢画と色鮮やかな大和絵を合わせたものとして始まった狩野派をベースとしながらも、作品に、華やかに装飾を保護した琳派や西洋画的雰囲気を取り入れた事で知られています。
また横山大観や菱田春草が明治時代後半に試した、輪郭をはっきりさせずに描く朦朧体による作品作りにも秀でており、その色彩感覚には爽やかな雰囲気や、技術力の高さも感じられるようになっています。
西郷孤月は横山大観や下村観山、菱田春草と並んで雅邦門下の四天王と呼ばれ、その才能が高く注目され日本の近代絵画を引っ張る存在となるはずでした。
しかし橋本雅邦の娘と結婚後の酒の席で、橋本雅邦と口論になった事がその後の人生に大きく影を落とすきっかけになったと言われており、また彼の名声は回復することはありませんでした。離婚後は酒と放浪の日々となり、それを横山大観や菱田春草が救おうとして展覧会に招いたものの、そのまるで別人のように才能は枯れ果て、心機一転しようとした各地を転々とした矢先に亡くなってしまいます。
西郷孤月の心情はとても推し量れないものがあります。
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