落合朗風(おちあいろうふう)は1896年8月に東京で生まれました。なお本名は平治郎と言います。16歳の時に商業学校を出ると、仕事を行いながらも川端画学校へ通い続け、約2年後、本格的に絵を学ぶため、遠い血縁関係となる京都画壇の小村大雲から指導を受けるようになりました。
そしてその翌年には明治絵画展や巽画会展でも作品を出し、1916年、第5回文部省美術展覧会において『春永』が初入選。1919年からは日本美術院展覧会を活動の場とし受賞も重ねますが、日本美術院展覧会の審査のやり方に疑問が残っていた為に抜け出し、京都に移住しています。
20代後半になると、帝国美術院展覧会で発表した『三十三間堂』を皮切りに以後同展で作品の出品を届けていくのですが、あと一歩、特選には届かない経験を何度も味わいました。しかし、1931年になると青龍展で発表した作品『華厳仏』が青龍賞を獲得。また次の年には青龍社人にもなっています。のちに38才の頃になると、青龍社からも離れ明朗美術連盟を設立するなどして画家として活躍の幅を広めていきました。
1937年にはオリンピック芸術評議員を任されますが、同年4月、41歳の若さで息を引き取っています。
落合朗風の作品は日本画をベースとしてありながらも、その画風は独学で得た部分が大きいと言われています。また洋画の技法として取り入れられてきた、文字通り、外の光を採用した外光派の技法を日本画に使った所も特徴として挙げられます。
素朴で感情生豊かでもあり、日本画の新しい提示を模索してきたとも言う指摘もなされています。
現代でも新しい作風という位置付けはされていますが、落合朗風の絵は当時の画壇においてあまり歓迎はされてはいませんでした。脱退と入会を繰り返しているのはそこに起因しているとされており、明朗美術連盟はモダンかつ既存の考えに囚われない作風を目指したものだと言われています。
とは言え1919年に日本美術院展覧会で発表した『エバ』は、日本美術の中心的存在の横山大観が感心を示すなど、一部で確かな評価を獲得していたのですが、病気により早くに他界することとなりました。この落合朗風の死については、日本を代表する画家の一人である藤田嗣治などが、日本の美術界としても大きな損害となったと述べています。
他の代表作
1924年に作られた『貧しきものは幸いなり』は父がキリスト教信者と言う理由もあってか、自身も強いキリスト教信者である事が、ありありと表現された作品と言われています。
他には1926年発表の第7回帝国美術院展覧会で出した『洛外風趣』。
1932年青龍社展第4回に出して同人に推薦された『那覇の麗人』などがあります。
■青龍社
1929年に川端龍子が開いた日本画の美術団体です。サイズ的に小さくまとまりがちな日本画の脱却を目指し、活動していました。
ですが川端龍子に依る所が大きいと言われており、川端竜子の死去を受けて、1966年には活動終了となりました。
■明朗美術連盟の経緯など
青龍社設立に参加し、落合朗風と同時期に抜けた日本画家の川口春波も明朗美術連盟の設立に加わっています。落合朗風が亡くなってからも活動は続いていき、川口春波が先頭たって引き継いでいきますが、意見の食い違いで離脱しました。