菅楯彦(すがたてひこ)は1878年3月に鳥取県倉吉市で生まれました。なお本名は藤太郎と言います。父親は倉吉の藩士であったのですが、明治維新が起こり藩そのものがなくなった為、父は自身が好きであった絵で生活を支えようとします。藤太郎はそんな父から日本画を学びますが、父が亡くなったのち、幼い藤太郎がその意志を引き継ごうにも生活はひっ迫。それでもなお独学で絵を学んでいき、移住先の大阪では美術館や博物館、図書館などが複合された、博物場に通い続け、四条派や狩野派などの作品を研究すると言ったように、多くの美術品を目にし、自身の腕を磨くことを続けていきました。
20代になった頃からは新聞社で挿絵画家を務めるなどして生活していきましたが、約2年後には大阪陸軍幼年学校歴史科の画事嘱託として就任。ここでは生徒に美術や歴史を指導したほか、自身も洋画家の松原三五郎から洋画の技法を学ぶなどし、歴史参考図を手掛けます。また同時期には自身の号を“菅楯彦”とし、1915年に行われた大阪美術展で監査員を務めるなど、画家として励んでいきました。
それから間もなくして、菅楯彦が39歳となった頃には、日本三名妓として数えられた芸妓の八千代と結婚。きっかけは八千代が仕事繋がりで菅楯彦から絵を教わっていた事でしたが、当時非常に高い人気を誇る一流の芸妓であった八千代と画家の結婚、という話題は菅楯彦にとって、画家としてのその名を広める良い噂となり、一定の地位を獲得する要因にもなりました。
こうして1923年には東京三越での個展を成功させ、50代の頃には日仏展で『春宵宜行』を発表。なおこの作品はフランス政府の購入作品となり、現在はポンピドゥーセンターに収蔵されています。ちなみに昭和になってからは大阪の風俗画や、歴史画など幅広い作品を制作した時期もあり、1935年には明治神宮聖徳絵画館壁画である『皇后冊立』の制作を行いました。これらの功績が認められ、80歳で日本芸術院の恩賜賞を獲得するなどしますが、1963年9月、85歳で息を引き取っています。
菅楯彦は写生をベースにしていながら独学の部分が多いためか、非常に個性的とも言われている作風を確立させています。どの画家集団にも所属せずに大阪の歴史を愛し、自身で「浪花御民」と呼び、上品かつ華やかなテイストの作品展開を行っていきました。
菅楯彦は歴史に興味がある事が起因して有職故実を学んだり、仏教美術史にも強い興味を向けていました。なおそれらは大阪陸軍地方幼年学校にて美術と歴史の教師として、後進の指導を行った事に大いに繋がっていきます。
ちなみにその時期には松原三五郎から洋画を教わったほか、また舞楽についても学ぶと言ったように、菅楯彦は様々な事にとても強い興味心を持っていた事が伺えます。
代表作など
日本・フランス美術展で発表した『春宵宜行』(ポンピドゥーセンター蔵)は最も代表的な作品のひとつです。
他には日本美術展覧会の招待作品でもある1951年発表の『山市朝雨』。『春秋難波人』などがあります。
■恩賜賞
日本芸術院が会員に属さない人を対象に、優れた芸術家に対して与える賞です。
■浪花御民について
まず御民とは天皇を敬い、自分は天皇の子であると宣言する意味です。そこに大阪市周囲や大阪を指す浪花を付けている所から、菅楯彦自身がいかにその2つに愛着を持っている事が分かります。