Useful お役立ち情報
2020.04.17
骨董品
時計
ブランド品

菅原白龍【日本画家】

菅原白龍(すがわらはくりゅう)

 

菅原白龍(本名は源暁)183311月に

 

山形県長井市(当時は出羽国)で生まれました。

 

なお父は菅原道栄といい、白龍山梵林院において

 

祭礼や社務を行う祠官の家系でもあります。

 

菅原白龍は学校を開いていた父から

 

幼い頃より手習いや書の指導を受けていたこともあり

 

10代に満たない時から絵に興味を持っていました。

 

この頃『北斎漫画』を見た事も大きなきっかけとなって

 

絵の学習は独学から始まり、

 

その後延岡画壇を賑わせた佐藤竹皐から学び

 

その次は松前藩の絵師である熊坂適山と富取芳斎から

 

花鳥画について教わっていきます。

 

なお富取芳斎の性格に惚れたことで

 

3年間、富取芳斎のもとで過ごした時期もありました。

 

さらに1862年には江戸にて

 

漢詩人で下谷吟社を開いた大沼枕山、

 

南画家でもあると同時に詩でも才能を発揮した

 

福島柳圃から学んでいます。

 

また、西洋画について深く学んでいた

 

川上冬崖とも交流を持ち、そのため菅原白龍自身も

 

洋画の研究を開始したのではないかと言われています。

 

やがて1877年の第1回内国勧業博覧会において

 

『浅絳の山水』を出展し褒状を獲得。

 

明治天皇が東北を訪れた際には山形にて

 

『栗嶺奇観十二景』を収めるなどして

 

名を広めていきます。

 

60代半ばには日本画会を立ち上げ

 

日本美術協会から名誉賞牌を貰い受けました。

 

そして同年、1898年に

 

65歳でこの世を去っています。

 

 

作風

 

菅原白龍は山水画や国典について造詣が深く

 

また中国絵画から影響を受けた南画を

 

日本的なものにするために苦心しました。

 

今までの南画は見たこともない中国の景色を

 

型通りに描いており、

 

それに対して疑問を感じていた菅原白龍は

 

身近な日本の風景を書いていきます。

 

その苦心していた時期は

 

明治維新による大きな時代のうねりの中でもあり

 

この明治維新は

 

日本文化を見直すきっかけも生みました。

 

反面で、明治維新は日本文化を

 

衰退させるものでもありましたが、

 

その反省のために絵画共進会や

 

東洋絵画共進会と言った

 

日本の本来の文化を見直す発表会が開かれ

 

菅原白龍はそれらに果敢に関わっていきました。

 

岡倉天心との関係性

 

ところが東京美術学校の校長を務めていた岡倉天心は

 

日本の美術に革新を望んでいたため

 

東洋絵画共進会を大いに非難します。

 

しかし菅原白龍はその意見に対して肯定的で

 

西洋美術の空間及び構成を理解し、

 

取り込んでいきました。

 

また岡倉天心は1896年に

 

日本の絵画に革新を起こすために

 

日本絵画協会を立ち上げますが

 

菅原白龍はそれにも参加。

 

第二回からは審査員の一人として

 

参加を薦められます。

 

 

菅原白龍の絵画に対する姿勢

 

菅原白龍は絵画について勉学することを惜しまず

 

また批判をも吸収し、自分のものにする

 

柔軟性をもっていた人物と言えます。

 

菅原白龍が生きた時代から大分経ちますが

 

その行いから学べる事が大いにあります。