芥川龍之介は1892年に東京都中央区で生まれました。生後間もなく母が体調不良になったため、芸術や演芸を重視する家系だった母方の実家に預けられ、そのまま叔父の養子となっています。
その後、中学校で成績優秀者として認められ、無試験で高等学校に入学。寮生活を送ったのち、当時は年に数人しか合格者がいなかった東京帝国大学文科の大学英文学科へ進学しました。在学中には、学友であった菊池寛や成瀬正一、松岡譲らと共に同人誌『新思潮』を出版し、海外文学の和訳版などを投稿しています。また作家としてのデビュー作となる『老年』も同誌上で発表。この時までは作家名を「柳川隆之助」としていましたが、1915年に文芸雑誌『帝国文学』上に『羅生門』を発表した際には本名でもある「芥川龍之介」の名で掲載しました。そのほか芥川龍之介は「澄江堂主人」や「我鬼」と言った名前でも作品を発表しています。
『羅生門』の発表頃には、芥川龍之介は夏目漱石の門下生となっており、特に1916年の『新思潮』に載せた『鼻』は夏目漱石から絶賛されました。同年、優秀な成績で大学を卒業すると海軍機関学校の英語教師に就任。並行して創作活動は続け、短編集を刊行しています。約3年間務めたのちに退官し、大阪毎日新聞社に入社すると、以降は執筆活動に集中していきました。
やがて結婚し妻子を持ちますが、29歳の頃から体調を崩し始めます。1923年に起こった関東大震災や、療養を目的に訪れた別荘での暮らしなど、自身の体験を基にした作品を生み出していきますが、晩年は親族の自殺などの問題によって疲弊し、秘書の女性と心中未遂なども起こしました。
そして1927年、35歳の若さで息を引き取っています。
芥川龍之介の作品は私小説なものや現代物、時代劇など幅広くありますが、人間の繊細な心情の動きを描写しているところに特徴があるといえるでしょう。
また『新思潮』の同人らと共に、知的な技巧で作品を展開する新技巧派として注目されるようになりました。
芥川龍之介の虚無的な作風は自身の環境が起因していると言われています。
幼い頃には母が精神的に支障をきたしており、その事は1926年発表の『点鬼簿』にて詳しく書かれています。また『新思潮』を出版した当時は吉田弥生と言う人物を好きになるのですが、残念ながら悲恋となり、その事もバッググラウンドの一つと言う指摘もあります。
また一方で、芥川龍之介の命日には「河童忌」という呼ばれもあります。
短編集のほか、童話や評論集を発表した芥川龍之介ですが、河童の小説、そして絵も描いており、これは日本近代文学館の『芥川龍之介の書画』で見られます。『河童図屏風』の題名の絵も公開されており、芥川龍之介自身が頻繁に河童について触れたこともあり「河童忌」の呼び名がつきました。
代表作
1916年『新小説』で発表の『芋粥』や、1918年『赤い鳥』で発表の『蜘蛛の糸』などがあります。
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