立原翠軒、その息子である立原杏所と孫娘の春沙は、江戸時代後期に水戸藩の芸術や人文文化の発展に影響を与えた「華麗なる親子3代」です。
立原翠軒は、江戸中期から後期にかけて活躍した儒学者です。水戸藩にある「彰考館」総裁として18年勤務し、「大日本史編纂」事業に貢献しました。また、翠軒は篆刻や書画の才能もあり、「西山遺聞」や「海防集説」等の著書もあります。
翠軒の息子である立原杏所は生まれつき絵の才能に恵まれておりましたが、江戸時代の中期から後期にかけて水戸藩の7代藩主である徳川治紀、8代藩主斉脩、9代藩主斉昭に水戸藩士として使えながら、書家、中国の南宋画の影響を受けた人文画家(南画家)、篆刻家として、様々な芸術活動も同時に行っていました。
東京国立博物館にある「葡萄図」は、杏所の作品の一つです。また、母親が亡くなられた後の杏所の作品の中には、二羽の鶯と薔薇と梅が描かれた「梅花長春図」があります。この作品を鑑賞する際、描かれている「二羽の鶯」が父親である立原翠軒と息子である杏所と想像しながら鑑賞すると、薔薇や梅が咲きほこる良い季節中で母親を亡くした杏所の悲壮感が感じられるのではないでしょうか。
立原翠軒の孫娘であり、立原杏所の長女である立原春沙は、父親である杏所の盟友、渡辺崋山一門十哲の一人として、10代の後半からはすでに画家として活躍をしていました。春沙の作品の中には、将軍御台所より称賛された江戸城大奥の花鳥図襖絵や花卉図がります。これらの作品は、彼女の繊細さが表れていたと伝えられています。春沙は画家として活躍した後、加賀藩の13代藩主である前田斉泰の正室である溶姫の侍女として、17年間にわたり加賀藩に仕えたと言われています。
また、幕末の歴史に名を遺した立原杏所の子供は長女の春沙だけでなく、9代藩主斉昭の側室になった次女の夏子、天狗党の説得に尽力して水戸城で戦死した三男の朴次郎、北辰一刀流創始者である千葉周作の三男の妻となった六女の稲子たちもいました。
春沙は、東京都文京区向ヶ丘2丁目の(本馬込の)菩提寺である海蔵寺にあるお墓に祖父の立原翠軒と祖母の塩と一緒に埋葬されていますが、平成6年には茨城県水戸市六段田にある立原家一族の菩提寺、六地蔵寺の墓にも埋葬されました。
立原翠軒、その息子である立原杏所と孫娘の春沙は、江戸時代後期の歴史的激動期に水戸藩士や加賀藩の侍女として政治の支配下に忠勤しながら、日本の文人文化や芸術にも素晴らしい影響を与えた「華麗なる親子3代」です。