種田山頭火(本名は正一)は、1882年に山口県で生まれました。実家は地主で、生活に困ることもなく育ちましたが、種田山頭火が11歳になった頃に、父の女遊びを気に病んだ母が自害。心に深い傷を負いながらも、その後は地元で学生生活を送り、1902年には上京して早稲田大学に進学しています。この間、一時は俳句に強い興味をもち、句会への参加や、友人たちと文芸同人雑誌を刊行するなど積極的に活動しました。
しかし大学生活は長く続かず、入学から2年後に体調を崩したことで中退しています。帰郷すると実家は衰退しており、持ち直すため1907年には父と種田酒造場を立ち上げました。一方で20代後半からは以前より興味を持っていた俳句を再びはじめ、この頃から「山頭火」の号で俳句雑誌に作品が掲載されるようになっていきます。30代になるとその才能も徐々に認められていき、俳人・荻原井泉水の手掛ける俳句雑誌『層雲』では選者として活躍するまでとなりました。
ですが、酒造の経営が行き詰まり倒産し、生家の家族は離散。種田山頭火は上京して東京で数年勤務しますが、まもなく妻とも離婚し、1923年の関東大震災後、熊本の寺で得度することとなりました。この時に名は「耕畝」(こうほ)としています。40代になっていた種田山頭火は、その後修行僧姿で日本中を旅し、貧しい生活の中、訪問する先々で俳句を生み出していきました。『層雲』への投稿や、個人による雑誌『三八九』の発表なども行い、俳人としての活動にも没頭。やがて体力的な問題もあって50歳の頃には山口県に腰を落ち着けることとなります。
同地では草庵で暮らし、句会を開くなどして友人をつくったほか、晩年には自身で作品を選りすぐった句集『草木塔』を発表しました。そして1940年、58歳で息を引き取っています。
種田山頭火の作品は型に当てはまらない自由律句によって、自身の安定しない感情を反映しているかのような、深い心情をさっぱりした雰囲気で表現している所に特徴があるといえるでしょう。
残されている作品は一万句以上とれており、また日記も書き記しています。
種田山頭火は酒好きとして知られており、「ただ単に時を重ね酒に溺れ、ただ歩いた」と言った趣旨の言葉も残しているのですが、そう言った様な人生観も作品を通して見られています。
住む所は安定せず、各地で多くの人達に支えられてきました。なお仲間の一人である大山澄太によって紀行文集『愚を守る』や『あの山越えて』が出されました。
他にはツルゲーネフの小説を翻訳して発表するなどもしています。
他の代表作
『山行水行』『柿の葉』などがあります。
■自由律
5・7・5の俳句や5・7・5・7・7の短歌にこだわらない形の句で、他には荻原井泉水や河東碧梧桐。尾崎放哉などの代表作家がいます。
■荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)
1884年に生まれた俳人です。河東碧梧桐の新傾向俳句運動に加わり、季題のない自由律俳句を世に広めました。中学時代から俳句をつくり、20代後半頃より俳句雑誌『層雲』を主宰。以降も多くの句集や俳句雑誌を発表しています。