洋画家の田崎広助は、1898年に福岡県に生まれました。
18歳で県立八女中学校を卒業後、
福岡県師範学校第二部に進学します。
卒業後は20歳の時に八女郡の上妻高等小学校に就任し
この頃から独学で絵画の勉強をはじめ、
画学生の仲間が開く洋画展などに出品し始めました。
1920年に上京してからは
小学校で図画の教師を務めながら、
坂本繁二郎に師事し絵画を学びます。
やがて1923年の関東大震災の際には
京都に移住しましたが、同地でも
小学校で教鞭を執りながら、
聖護院の関西美術学校で学びました。
その後1926年の第13回二科展に出品した「森の道」、
「山百合」、「京都吉田山」が初入選を果たし
34歳の頃から約3年間シベリア鉄道で
パリ、イタリア、スペインなどに渡り
写生をしながら周遊します。
1933年には、サロンドートンヌに「パリの裏町」など
2点を出品し入選、帰国後には練馬区豊玉に
アトリエを構えて制作活動に入りました。
そして、1939年、「一水会」の創立に携わります。
また、50代の頃からは日展審査員や日展評議員を
歴任しながら制作活動も続け、63歳の頃には
「初夏の阿蘇山」、「朝焼の大山」などの連作が
日本芸術院賞を受賞しています。
その後も日展理事や日本芸術院会員を歴任したほか
三等瑞宝章やブラジル政府より
コメンダドール・オフィシアール章、
グラン・クールズ章などを次々と受賞しました。
これらの功績が称えられ、
1975年、77歳のときに文化勲章、文化功労者を
授与されています。
作品には阿蘇山をモチーフにした風景を
好んで描いていたため、阿蘇の田崎と呼ばれました。
田崎広助の作品には山岳風景をモチーフにしたものが
多数見られます。
その中でも特に阿蘇山を描いたものが多く、
大胆な構図と配色は
ダイナミックな山岳風景を描写していますが、
田崎広助が描く風景は
どこかユーモラスで温かみが感じられます。
それらの作品はパリへの留学時に影響を受けた
印象派の画家セザンヌの作品と日本的な油絵の融合、
そして元来の自然への憧憬の興味が作り上げた
田崎独自の世界観を表しています。
田崎広助の作品は、阿蘇山、富士山、浅間山など
そのモチーフ、素朴でありながら豪胆な独特の筆致で
他の画家とは一線を画しています。
既存のジャンルに収まることのないその作風は
確固とした地位を確立しています。