狩野芳崖(かのうほうがい)
狩野芳崖は1828年2月に山口県長府で生まれました。
なお父は長府藩御用絵師の狩野晴皐として知られ、
父からも教えを受けています。
また1846年に江戸に上り、木挽町狩野家へ入り
木挽町狩野家の最後の画家として務める
狩野勝川院からも教えを受けました。
なおそこでは親友となる、東美校初代教授を務める
橋本雅邦と出会っています。
その後、狩野芳崖は父と同じ様に
長府藩御用絵師として活躍しますが
1868年に起こった明治維新を契機に
生活が苦しくなります。
しかし1882年に東京大学の教師として務めていた
アーネスト・フェノロサと出会った事が、
画家としての転機となりました。
思想家で、新しい日本の美術についての
必要性を訴えた岡倉天心と共に
東京美術学校の開設に尽力したと同時に、
1884年には文部省の御用掛として務め
1888年には東京美術学校の教授を
任せられることとなっています。
ところが東京美術学校が開く前に倒れてしまい
60年の生涯を閉じることとなります。
遺作となった、観音菩薩を描いた『悲母観音』は
作成途中となってしまいましたが
近代日本画の象徴的作品となっています。
フェノロサにより影響を受けた作風などが有名
狩野芳崖は、1878年に日本に来て
また日本美術の価値を強く伝えた
アーネスト・フェノロサの働きかけによって、
日本画革新運動に注力します。
またそれだけではなく、フェノロサとの出会いは
作品に西洋顔料を使用したり
空間や色彩などの考え方と言った、
西洋画の主流を日本画に持ち込みます。
なお『悲母観音』については、西洋画で培われてきた
遠近法や陰影法を用いています。
近代日本画の父
狩野芳崖は近代日本画の父と呼ばれています。
その所以はアーネスト・フェノロサとの出会い
及び東京美術学校の立ち上げに
参加した所から分かります。
しかし父の狩野晴皐が亡くなった関係で
10歳の頃に跡継ぎとなった点には苦労を感じますし
重圧もあったかと思います。
また明治維新では藩が廃止されたので
そうすると父と同じ長府藩御用絵師となっても
活躍出来なくなりました。
しかしアーネスト・フェノロサと出会った事は
狩野芳崖の決定的な方向性を決めましたし
『悲母観音』はフェノロサが
『聖母マリア図』に肩を並べるものを作って欲しい
と言われて手掛けたようです。