狩野永悳は、1815年に江戸木挽町に狩野家の
伊川院永信の子として生まれました。
幼名は熊五郎といい、宗家の中橋狩野家の
狩野祐清の養嗣子となって中橋家を継いでいます。
ちなみに、ここでご紹介する狩野永悳は、
安土桃山時代を代表する狩野派の棟梁、
狩野永徳とは別人となります。
狩野永悳は1848年に幕府御用絵師になり
徳川家斉から徳川家茂まで4代に渡る将軍に仕え、
江戸城本丸御殿の障壁画など
多くの幕府御用に従事しました。
明治維新後に行われた皇居造営に際して
皇后宮御殿御杉戸、小襖などに
多数作品を残しました。
1878年にフェノロサが来日した際には
古画の研究、鑑定などを学びながら
日本美術史学の形成に貢献しました。
やがて、1884年には第二回内国絵画共進会に
「虎渓三笑図」を出品し銀賞を受賞しています。
この時、審査員も務めています。
また、絵画会にも設立時から
古画の鑑定委員として参画していますが、
絵画会の比重が次第に新画に移っていくと、
自身の作品の方に力を注いでいきました。
72歳の頃には明治宮殿杉戸に作画し、その2年後には
臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛を務めています。
そして1890年、75歳のときに
帝室技芸員に任命されました。
狩野永悳の代表作の内の一つに
「武者図屏風」がありますが、この作品は1856年に
幕府がオランダ国王ウィレム3世から
蒸気船の返礼の品として贈与された
屏風10双の内の一作品です。
屏風の右隻は後三年の役で
鳥海弥三郎に右眼を射抜かれながらも
弥三郎を追って打ち倒す鎌倉権五郎の勇姿を描き、
左隻では平治の乱で八町次郎に熊手を掛けられますが、
これを切って落ち延びた平頼盛を描いています。
国と国との親交と当時の幕府の威信をかけた気風、
そして狩野永悳の精緻でありながら
物語性を帯びた秀品となっています。
また、1869年に日墺修好通商航海条約の際に
フランツ・ヨーゼフ1世に贈られた
「風俗・物語・花鳥図画帖」では、
双六図など日本の風俗なども描いています。
狩野永悳は、幕府の御用絵師として
屏風など多数制作しましたが、
その後もフェノロサらと共に
日本美術における礎を築きました。
様々な展覧会の審査員も務めながら
弟子の育成にも力を注いでいます。
弟子には、武内桂舟、狩野忠信、小林永濯、
狩野永雲など多数の優秀な弟子を育てています。