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渋沢栄一は1840年に埼玉県深谷市で生まれました。実家は農作物の生産のほか養蚕や藍玉なども取り扱う裕福な農家で、幼い頃から父に漢籍を。また、従兄弟である尾高惇忠からは私塾・尾高塾にて学び、そのほか剣術家より剣術の手ほどきを受けるなどして育っていきます。
家業の仕入れなどに携わるようになってからは商人としての腕も磨き、18歳で結婚後に上京。20代の頃から天皇を慕い開国に対して否定的な尊王攘夷派となっていた事から、一時は高崎城から武器を奪い、横浜を襲う計画を企てていました。親類からの説得で思いとどまったのちは、まもなく知り合った一橋慶喜に仕えるようになります。
2年後、慶喜が最後の将軍として徳川慶喜を名乗るようになると、渋沢栄一は幕臣となり、1867年のパリ万国博覧会を視察。この際、ヨーロッパ各地に訪問し、外国の革新的な社会情勢を目の当たりにして衝撃を受けました。同時期日本では大政奉還が行われており、渋沢栄一はまもなく帰国していますが、明治政府が発足すると謹慎となった徳川慶喜に従い、静岡にて、ヨーロッパ式の社会体制を模倣。株式会社制度の実践や商法会所の設立を実現しています。1869年からは民部省に務め、続いて大蔵省にも出仕し、この間には富岡製糸場の立ち上げなども行いました。
その後、1873年に大蔵省を退職すると、35歳で第一国立銀行の頭取に抜擢されています。以降も民間で数多くの企業の設立や育成に尽力し、日本鉄道会社や東京電灯会社、東京ホテルなど、社名が改められ現在も活躍している会社も含め、数百社あまりを支援しました。
また教育の分野へは晩年に至るまで力を入れており、女子教育の必要性を訴えています。
1909年にはそれまで勤めていた多くの会社の役員職を辞任。実業団を設立してアメリカや中国との交流を深め、また関東大震災後には積極的な復興支援活動を行いました。
最晩年まで各界で活躍し、1931年、91歳で息を引き取っています。
渋沢栄一はこのように数多くの事業を展開し、会社数としては500以上の団体に携わったと言われています。
こう言った事も起因して「日本資本主義の父」とも称され、1881年から東京大学文学部講師として就任し、日本財政論を教えたりもしているのです。
経歴をみても友人が多くいたのは想像に難くないと思いますが、徳川家に仕えていたのもあってその頃からの繋がりも強く、渋沢栄一の終生までの事業活動の基盤ともなりました。
そのほか鉄道については、実現には至りませんでしたが当初は民営で行うという考えがあり、その実現を目論んで1875年に鉄道会社を造り上げたと言われています。
以降も、現在では名を京阪電気鉄道、東急、とした鉄道各社の設立に尽力したことなどからその功績が評価され、令和6年(2024年)発行の一万円札の肖像に渋沢栄一が選ばれました。
関連書
1944年から1971年にかけてまとめられた『渋沢栄一伝記資料』を国内外の図書館が所蔵。
また一橋大学附属図書館が関連書を所蔵などしています。
■徳川慶喜(とくがわよしのぶ)
江戸幕府第15代将軍であり大政奉還によって支配権を明け渡した最後の将軍です。その後は謹慎となりましたが、狩猟や写真を楽しむなど悠々自適の生活を送る事が出来ました。
■尾高惇忠(おだかあつただ/じゅんきょう)
富岡製糸場を立ち上げ、第一国立銀行にも携わりながら製藍法の普及などにも尽くしました。渋沢栄一の従兄弟でもあり、栄一は生涯の師と仰いでいます。
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