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2016.12.02
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浮世絵師~月岡芳年について

月岡芳年とは

 

大蘇芳年は幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師です。

 

本名は「吉岡米次郎」(のちに月岡となる)といい大蘇芳年にいたるまで「一魁斎芳年」、「魁斎」、「玉桜楼」、「咀華亭」、「子英」と号をいくつも変え大蘇芳年となります。

 

1839年に(諸説ありますが)江戸の新橋に生まれます。

 

その後養子として月岡家に入ることで月岡姓となります。

 

1850年、12歳にして「歌川国芳」の門下生になります。

 

その頃「歌川国芳」は向島に居を構え、多くの門下生をとるようになっています。

 

同門には「河鍋暁斎」や「歌川芳藤」「落合芳幾」などがいました。そこで「武者絵」「役者絵」を学びます。

 

また「国芳」は猫を用いた作品も数多くあり、猫好きからも高い評価をうけていますが、「芳年」の作品もまた多くの猫が登場しています。これも国芳の影響かと思われます。

 

15歳のときには「画本実後教童子教余師」を挿絵として描きます。このときは「吉岡芳年」を名乗ります。

 

同年初の錦絵「文治元年平家一門海中落入図」を「一魁斎芳年」の号を使っています。

 

1867年には「芳年」代表作「英名二十八衆句」を「落合芳幾」との合作として発表します。これは歌舞伎の残虐シーンから着想され顔の皮膚を包丁で剥いでいるものや天井から吊るした人間を刀で刺し殺しているものなどとても狂気なものです。これらの作品は「無惨絵・無残絵」と呼ばれ芳年は「血みどろ絵師」と評されます。

 

芳年はその後神経衰弱に陥ってしまうが、奮起し蘇りの意味した「大蘇芳年」を号とします。この頃は西洋画も研究し画法が変わっていきます。

 

それ以後は錦絵や新聞の挿絵を多く描くこととなり「郵便報知新聞」にも参加します。これは3年ほどの期間発行された「錦絵新聞」です。

 

1885年には縦二枚続きの代表作「安達ヶ原一つ家の図」などにより、当時の浮世絵の番付において筆頭に選ばれました。

 

「安達ヶ原一つ家の図」は二本松安達市の鬼婆伝説をモデルに描かれた無残絵です。

 

1891年には「新形三十六怪撰」などを手がけるが再び神経衰弱に陥っていきます。

 

1892年、脳充血のため54歳にして没します。

 

芳年の絵は多くの作家「谷崎潤一郎」「江戸川乱歩」「芥川龍之介」「三島由起夫」などに影響を与えたことで知られています。