津田青楓(本名は亀次郎)は、1880年に京都で生まれました。ちなみに実家は生花の去風流を代表する家筋です。小学校を出た後に呉服問屋で奉公していた津田青楓は、京都四条派の画家・升川友広から絵を学び、染織学校に進学。在学中は歴史画家の谷口香嶠に師事し、のちに関西美術院へ通うようになると、鹿子木孟郎や浅井忠らからデッサンや洋画、日本画について教わりました。
在学中の1900年から3年間は兵役を務めましたが、除隊後は通学もしながら京都高島屋の図案部で働き、自身の作品制作も並行して行っています。卒業後、27歳の頃からは海外実業練習生と言う形でフランスに渡り、私立美術学校のアカデミー・ジュリアンにて、画家のジャン・ポール・ローランスから絵を学びました。約2年後に帰国し、1914年、二科会の設立メンバーとして参加。やがて1929年には、津田洋画塾を立ち上げると言ったように、京都画壇の代表的な洋画家として存在感を強めていきます。
また社会主義や無政府主義などに入れ込む時期もあり、1931年の第18回二科展への出品作『ブルジョワ議会と民衆の生活』や、1933年、政治運動を示した作家の小林多喜二が獄中殺害されたのを受けて制作した、『犠牲者』を発表するなどしました。これらは警察に目を付けられるきっかけともなり、他の活動も相まって、津田青楓は同年に検挙されています。
逮捕後の翌月に釈放となり、以降は二科会を退き、日本画に打ち込んでいきました。また一方で曹洞宗の僧で歌人でもある良寛についての研究を深めていったことから、画家以外に良寛の研究家としても名を広めていきます。
晩年は杉並区に居を移し、1978年、97歳で息を引き取りました。
津田青楓は多種多様な作品を描き、絵のみならず詩や短歌、エッセイなども発表しています。
他には写生をベースとした図案の試みや、画家としては二科会脱退後の、日本画家としての活動に注目が集まっています。自由で味わい深い作品の数々を発表しました。
津田青楓自身は体験した出来事を作品に反映させていると言った指摘もあり、日露戦争での出来事を文芸雑誌『白樺』にて掲載するなどしています。
また1910年にフランスから帰った際は夏目漱石と交流を持つようになり、彼の小説作品の装丁を手がけたり、絵の指導も行っている所も評価の一つです。
代表作
『富士女二景』や1932年発表の『疾風怒濤』(笛吹市青楓美術館が所蔵)。
『漱石先生読書閑居之図』などがあります。
■関西美術院
京都の洋画教育機関として設立され、津田青楓のほかにも梅原龍三郎、安井曾太郎などが卒業生として知られています。
1906年に設立されましたが、現在はその校舎は国の登録有形文化財となっています。
■夏目漱石
帝国大学英文科を出るなど英語の能力に注目された後、東京大学などでの指導を挟んでから文筆による創作活動に転向しました。
『三四郎』や『坊っちゃん』、『吾輩は猫である』などの作品で多くの支持を獲得しています。
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