河野広中は1849年8月に福島県の三春町で生まれました。なお父は美春藩の藩士でしたが、家は商家を営んでいたため比較的に余裕があり、河野広中も若い頃から儒学を学んでいたといいます。こうした中で河野広中は、元は儒学者が唱えたと言われる尊王攘夷論を自身も主張するようになり、20歳前の頃に起こった戊辰戦争に参戦。自身の住む三春藩は新政府軍と対立関係にありましたが、河野広中は兄と共に、藩が考えを改めるよう思案し、板垣退助からの認めも得て、最終的には無血開城へと漕ぎ着けました。
明治維新の変動後は下級官吏として勤めながら、藩の者達と自由民権運動を行うようになり、その行動の基盤として1875年には福島県石川村に石陽社を設立。また2年後には地元三春藩で三師社を立ち上げ、1881年には正道館を設立。福島でただ一つの政治教育を行う塾として機能し、多くの運動参加者を輩出しました。
この間には県庁などに勤めることを辞め、各機関で自由民権運動の活動や育成に専念していましたが、正道館を立ち上げたのと同じ年には自由党も設立。その後は自由党の幹部として、福島県会議長などを勤めていきます。
ところが30代前半の頃、自由党と農民に厳しい対処をしていた福島県令の三島通庸と対立する事態が起こり、その為に河野広中は牢へ軟禁されました。(これを福島事件と言います。)6年間以上の幽閉生活となったのですが、1889年に大日本帝国憲法のお達し(大日本帝国憲法発布の大赦とも言います)によって釈放。釈放後も自由民権運動の輪に加わり、翌年には第一回総選挙で衆議院議員に当選し、政治家としての活躍を続けていきます。
やがて、1903年には衆議院議長に就任。第2次大隈内閣時は農商務相を務めたほか、憲政会の立ち上げにも加わるなどして、1923年、74歳で息を引き取りました。
河野広中はこのように福島を中心にそこにいる人達をまとめ上げ、自由民権運動に大きく貢献したところに特徴があります。
また強い信念をもつ人物とも評され、1905年に日本とロシアが結んだ、日本がアジア内で強い優待を持つポーツマス条約に反対。その為に東京の日比谷公園にて講和条約反対国民大会を開きますが、警官との衝突が起きました。(日比谷焼打ち事件と呼びます。)
明治維新に差し掛かる前から既に天皇を政治的な立場で神聖なものにさせる、尊攘論を唱えていると言ったように、新しい時代の先駆けを唱えた一人と評価できます。
なお明治時代の東日本エリアを象徴する政治家と言った見方もされ、実際に自由民権運動を代表する存在として「西の板垣退助、東の河野広中」と呼ばれました。
代表作
正道館を立ち上げると同年に政治について語った『三陽雑誌』を発表。関東や東北地方においては、今までになかった政治雑誌と言われています。
他には国立国会図書館が所蔵の自由党や福島事件関連、詩文や書なども残し、磐州の号を使っていました。
また『日之本文書』の明治写本も手掛けています。
■自由民権運動
1874年の明治時代前半において、国会や憲法を立ち上げる事を求めた運動です。
不平等にも感じた薩摩や長州、土佐に肥前からなる藩閥政府に反対を示したもので、自由党や立憲改進党が設立されるなどして果敢に活動が行われました。
ところが強い批判も起こり、萎縮と言う形になりましたが、大日本帝国憲法の発布へと繋がっていきます。
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