池田遥邨は1895年に岡山県に生まれます。
17歳の時に松原三五郎が主催する
大阪の天彩画塾に入り、洋画の技術を取得。
やがて19歳の時には第8回帝国美術院展覧会において
発表した水彩画『みなとの曇り日』にて
初入選を果たしました。
やがて1919年に
国画創作協会を設立する小野竹喬と出会った事で、
日本画への転身を考えていた池田は
戦前の京都画壇の代表的存在である竹内栖鳳の画塾
竹杖会に入ります。
その後同年の第1回帝国美術院展覧会において
『南郷の八月』を出品し、受賞を果たしました。
41歳の時にはかつて在学していた
京都市立絵画専門学校の助教授となり、
60代になる頃には画塾の青塔社を開いています。
これらの功績が評価され、1987年、
92歳の時には日本画の分野において
文化勲章を受賞しました。
他の代表作としては『雪の大阪』と『烏城』
(いずれも帝国美術院展覧会で特選を受賞)
などがあります。
池田遥邨の作風は時代によって
何度も変化しています。
日本画家に転身する前は西洋画家の
ムンクやゴヤ、シャヴァンヌに影響を受け、
関東大震災の光景を描いた『災禍の跡』を
1923年の帝国美術院展覧会にて発表しました。
しかし落選をし、その後もムンクや
シャヴァンヌなどからの影響を現した
他の作品群も発表しますが、
それらの作品は落選を続けます。
日本画家に転身した後は
洋画的な写実表現を日本画に当て込め、
その作風も変化させています。
1928年の大正の終わり頃になると、
大和絵や南宋画などを研究していた成果を発揮させた
『雪の大阪』で、文部省美術展覧会において
特選を受賞しました。
さらに1935年頃には日本画を代表する
冨田渓仙に影響され、鳥瞰図法で明るい色彩感覚の
風景画を描き、新たな作風を確立させています。
■災禍の跡について
『災禍の跡』は屏風作品であり
関東大震災によって荒れ果てた場所で、
人々が打ちひしがれる様子を描いています。
この作品は池田遥邨自身が描いた
400枚ものスケッチを元にしていると言われ
池田の代表的な作品の一つです。
■ムンク
不安や恐怖、孤独や嫉妬など負の感情を描いた、
表現主義を代表するノルウェーの画家です。
■シャヴァンヌ
ギリシャやローマの神話を題材にした、
19世紀のフランスを代表する画家です。
■冨田渓仙
四条派の画家です。
また南宗画をベースとした
自由な作風として知られています。
■大和絵
日本の風景や生活を題材にした絵です。
■南宋画
中国山水画の一つで南画とも呼ばれます。
柔らかいタッチで描いていきます。
■鳥瞰図法
鳥の目線で見下ろしているようなアングルが
特徴の風景画です。
池田遥邨は
果敢に作風を変えてきた人物であるのが伺えます。
またその経験を画塾の青塔社などでも
教えたに違いありません。
さらに、落選を続けても
ムンクやシャバンヌなどからの
影響を現した作品を発表した事からは、
意志の強さも感じられます。
柔軟性と確固たる意思を持ち合わせているのが
池田遥邨と言えそうです。