池上秀畝(いけがみしゅうほ)は1874年10月に長野県伊那市で生まれました。なお本名は国三郎であり、父は四条派画家である池上秀華、祖父もまた画家として知られています。池上秀畝の実家は小間物問屋でもあるのですが、幼少期から家業の手伝いをやると同時に、父や祖父の影響を受け、よく写生を行っていました。
その後15歳の頃に上京すると、父と共に師を探し、荒木寛畝の家にて住み込みをしながら学び始めます。なお荒木寛畝は洋画の技法を入れ込んだ花鳥画などで帝室技芸員となりますが、住み込み当時はまだ名は売れていませんでした。密度の濃い花鳥画を既に確立させていた荒木寛畝は池上秀畝に文人画を教え、また一時は洋画についても学ぶようになります。なお作家名の秀畝は、父と荒木寛畝の名前からきたものです。
やがて30代になると同じ荒木寛畝から学んでいた大岡緑畝と結婚。2年後には文部省美術展覧会の設立にあたり、疑問を感じていた為に正派同志会を立ち上げ、同展の第1回で二等銀牌を獲得しました。とは言え1908年の第2回文部省美術展覧会にも出品しており、作品は初入選。官設美術展内の旧派を象徴する存在となっています。
なお荒木十畝と共に読画会展を立ち上げながら、伝神洞画塾も発足。また1916年から1918年までの間には、文部省美術展覧会にて特選を連続獲得しました。さらに1918年には新結社も立ち上げ、文部省美術展覧会の審査を変えるきっかけとして機能下と言われています。
こういった功績から、池上秀畝は翌年より帝国美術院展覧会の無鑑査となり、1933年からは帝展審査員として活躍。晩年も精力的に活動を続け、1944年5月、69歳で息を引き取りました。
池上秀畝の作品は花鳥画や山水画について自ら深く学び、華麗で深い世界観として昇華。細かく緻密に描いている所に特徴があります。なお寛畝流の南北合派がベースにあると言った指摘もなされています。
池上秀畝は少年期に自然のケッチしていた時期から、写実性に優れていました。また師匠の荒木十畝に学ぶと、それよりも高い緻密な描写能力を手にしてきたようです。
旧派の画家と言う立場を尊重しながらも、伝神洞画塾にて後輩を育てた事も起因して、長野県の代表的な日本画家のひとりとなっていきます。
とは言えただ伝統を守るだけでなく、1926年以降に描かれた屏風絵の『初雪』では左右それぞれで違う季節と景色を表現するという屏風絵のセオリーを取っ払い、六曲一双で描くなど、挑戦的な一面もあるようです。
代表作
1916年第10回文部省美術展覧会で特選となった『夕月』(東京国立近代美術館が所蔵)。
翌年の第11回文部省美術展覧会で連続特選を獲得した『峻嶺雨後』。
1930年の東京会春季展にて発表した『幽溪春遅』(東京国立近代美術館が所蔵)などがあります。
■伝神洞画塾関連について
伝神洞画塾では挿絵画家として活躍した小林秀恒も在籍。池上秀畝自身は1931年から神宮の為の奉献画を描いているなど、後進の指導以外に作品制作も行っていました。
■官設美術展について
官設美術展は官展とも略されますが、日本政府が行った政府が主催する美術展覧会を引っくるめて言います。官展内には文部省美術展覧会や帝国美術院展覧会。日本美術展覧会などともありますが、1958年を機に民間団体が引き継ぐ形となりました。
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