水野年方(みずのとしかた)
水野年方は1866年1月に生まれました。
左官の息子でしたが、
幼いころから絵を描くことが好きで
その才能は周囲からも認められる程だった
といわれています。
これがきっかけとなり、14歳の頃には
絵を学び始めました。
師としては武者絵や戦争画を描き、
「血みどろ絵」や「無惨絵」と言われるほど
陰惨な作風で知られる月岡芳年がいます。
その後水野年方はやまと新聞や
文芸倶楽部の挿絵を手掛けたり、
また宮内庁御用品としても選定されるなど
徐々に名を広めていき、30代では
早くも日本画会評議員や
日本美術院賛助会員などを勤めました。
そして1908年、40代前半という若さで
息を引き取っています。
代表作には『岩清水図』や
『御殿女中』などがあります。
時代に合わせた幅広い作風
月岡芳年の作品としては、美人風俗画や
歴史画などが知られています。
その作風は細やかで、品の良い雰囲気の作品を
仕上げることでも有名です。
また師の月岡芳年がそうであるように
水野年方自身も戦争画を手掛けており
二代目・月岡芳年を名乗るでは?
と言われたほどその技能の高さは
注目されてきました。
実際に様々な種類の作品を手掛けており
木版画もその内の一つです。
木版画を作るのに必要な
下絵を元にして掘る彫師と、色を一つずつ摺っていく
摺師の技術も相当に高いと言われています。
そして時代に合わせて作品を発表して
大衆の需要にも応えています。
浮世絵師として名を馳せていたものの、
時代の流れでプロマイドに人気が流れると
今度は挿絵を手掛けていきました。
関連用語の細かい解説
水野年方は浮世絵の歌川派を受け継いでいます。
歌川派とは江戸時代後半に生まれた
浮世絵の一派です。
始まりは浮世絵と洋画の遠近法を合わせた作品を
展開した歌川豊春からとなり、武者絵なら歌川国芳。
役者絵だと歌川国貞。風景画なら歌川広重、と
細かく細分化されるようになります。
なおその武者絵の歌川国芳は月岡芳年の師となり
歌川派は水野年方の息子の鏑木清方に受け継がれ
脈々と続いていきます。
多くの後輩を育てた水野年方
水野年方が息を引き取ったのは1908年4月。
わずか43歳という若さでですが、
多くの後進を育てています。
例えば上に書いてあるように息子であり
同じ様に上品な美人画を残し、
やまと新聞の挿絵を引き継いだ鏑木清方。
鏑木清方や大野静方と共に烏合会を立ち上げ
川合玉堂からも学び、新聞挿絵や浮世絵の
風俗画家として名を馳せた池田輝方などがいます。