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2021.04.30
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武者小路実篤とは【代表作/文学家/絵画/白樺派】

武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の生い立ちは?

武者小路実篤は1885年に東京都千代田区で生まれました。なお父は子爵の武者小路実世と言う人物です。6歳の頃に学習院初等学科へ入り、在学中に出会った志賀直哉と交流。高等学科では文学や仏典、聖書などの書物に興味を抱き、1906年には東京帝国大学文科大学哲学科へ進学しました。

しかし、翌年には作家活動に道を絞るために退学し、志賀直哉や正親町公正らと文学研究会の十四日会を設立。自身で文学創作を開始し、1908年には自費出版と言う形で初めての作品集『荒野』を発表しています。また20代半ばの頃に志賀直哉や有島武郎などと共に文学雑誌『白樺』を発行したことで、以降、武者小路実篤は白樺派の代表的作家の1人として知られることとなりました。同誌では夏目漱石を称賛する内容も掲載しており、師弟関係ではないものの、親交を深めています。

その後は大阪毎日新聞上にて『友情』を連載開始したほか、小説『幸福者』や戯曲『人間万歳』など、執筆活動に打ち込んでいきました。1923年の関東大震災後には『白樺』の刊行が終了するものの、スケッチや油彩画を制作するようになり、一時は個展も開催しています。

 

この間、武者小路実篤は文学活動の一方で、1918年に宮崎県にて、階級の違いによって起こる争いのない社会作り実現のため、生活共同体である「新しき村」を建設しました。現地では作家活動に並行して農作業を行うなどし、さらに1939年には埼玉県に新たに同共同体を作り上げています。1924年に村での生活から離れてはいますが、村外からも会費を支払うなどして貢献しました。

 

1926年には戯曲『愛慾』を出すと同時に劇場でも上演され好評を呼び、また1929年には絵画作品を国画会展に出品するなど画家としての活動も継続しています。50代の頃にはヨーロッパやアメリカに訪れ、その経験を元に美術論なども発表。日本芸術院会員としても認められました。

1946年には貴族院議員に当選しますが、同年に退き、1948年には志賀直哉や安倍能成などと共に同人誌『心』を発表。そして1951年、文化勲章を授かっています。

以降も積極的に作品を発表し、1971年、90歳でに息を引き取りました。

 

 

 

武者小路実篤はどのような部分が評価されているのか?

『白樺』で発表してきた所から白樺派と呼ばれている点は非常に有名です。多岐に渡る小説や戯曲を生み出し、人生論も多く語りました。

1930年頃からの執筆の発注が途絶えていた時期は、自ら「失業時代」と語り、ロシア人小説家のトルストイや井原西鶴などの伝記を書き、また画家としても作品を生み出しているなど才能の豊かさが伺えます。

また、武者小路実篤が開いた「新しき村」は令和現在も続いており、十数名の村民が暮らしています。

 

他の代表作

 

1911年発表の『お目出たき人』

1921年に発表の自伝小説『或る男』。

1951年発表の『真理先生』などがあります。

 

 

 

各ワード紹介

■白樺

1910年に発表された、文芸・美術雑誌です。

武者小路実篤をはじめとして志賀直哉や有島武郎など学習院に連なる作家や、装幀や文章に洋画家の岸田劉生が携わるなど、日本の文壇史でも代表的な作家たちが多く活躍しました。

関東大震災後の廃刊までの160巻で自由主義や人道主義的な文学作品を中心として掲載したほかオーギュスト・ロダンやアルノルト・ベックリン、ポール・セザンヌなど西洋絵画作品の紹介及び評論も展開しました。