正岡子規(まさおかしき)は1867年に愛媛県松山市で生まれました。なお本名は常規と言い、父は松山藩士として勤めていました。その父は正岡子規の幼少期に亡くなってしまったため、正岡子規はまもなく家督を継ぎ、熱心に勉学に励んでいきます。漢書を始めとして、小学校進学後は書画や漢詩、政談などにも興味を持ち、やがて10代半ばの頃に中学校を途中で辞めると同時に上京。東京では予備校に通い、帝国大学の哲学科に進学しますが、次第に文学の方に強い興味を持ち始めたため在学中に学部を転科しました。学生時代には夏目漱石を始めとした文学者や、後に官僚や軍人になる名だたる友人と交流を深めますが、25歳頃に同校を退学。その後は日本新聞社に務めています。
以降は新聞記者として文芸活動に専念しますが、1894年に始まった日清戦争の際には自らの希望で従軍記者として活動。その最中で病に倒れ闘病生活を続けながらも、1895年には俳句について教えを説いた『俳諧大要』を掲載。また1897年には俳句雑誌『ホトトギス』を立ち上げ、活躍を続けました。
のちに30代になると新聞『日本』にて歌論書の『歌よみに与ふる書』を連載。客観性を重視するものとして今までの短歌の在り方を変える最初のきっかけと言う事で支持を獲得しました。晩年は病床でも自身の状態を客観的に記すなどの執筆活動を行いますが、1902年9月、34歳の若さで息を引き取っています。
正岡子規は写生論を説いた事で俳句・短歌の近代化を推し進めた事が特徴です。対象物をそのまま捉え、主観性や情感性と言ったものを省くことに着目と言った事もなされています。
なおこう言った正岡子規における写生論は、画家の中村不折から影響を受けていると言われています。
またただ客観的に書くだけではなく、そこから何を取り上げ何を省くか?と言う作業も必要だと正岡子規自らが語っています。
正岡子規の写生論の説き方では新聞『日本』内の『歌よみに与ふる書』にて、日本最古の和歌集だと位置付けられている『万葉集』や鎌倉時代に源実朝が記した『金槐和歌集』を称賛しています。
しかし江戸時代後半から明治にかけて生まれた和歌の流派「桂園派」や、平安時代前期に生まれた『古今和歌集』などに影響を受けた、それまでの和歌を強く批判してもいるのです。なおそれらとの因果関係は不明ですが、正岡子規の作品は攻撃的であると言った指摘もなされています。
しかしそれでもなお近代化を推し進めた事は変わりなく、伊藤左千夫や高浜虚子などを輩出するなど多くの影響を日本に与えました。
他の代表作
『寒山落木』は正岡子規が息を引き取った後の1924年から1926年の間に出された、正岡子規自身の作品をまとめたものです。作品内には1885年から1896年に発表したものがあり、作風の変化が感じられる内容となっています。
また、『獺祭書屋俳話』は1892年に発表されました。俳句論について書かれており近代化を推し進めるきっかけと言われています。
■俳諧大要
日清戦争時に病に倒れその際に発表したものです。
同じ松山市出身の盲人でありながら俳句を作った服部華山に向けて書かれており、三段階に分けて作法を説いています。
■ホトトギス
愛媛県松山市で誕生しました。親友となる俳人の柳原極堂も携わりまた俳句雑誌でしかも月ごとに出すと言う形態自体が珍しいものと言われています。
愛媛県松山市で主に発売され一時期存続が危ぶまれるものの、正岡子規が息を引き取った後、強い繋がりのあった夏目漱石が自身の作品『坊っちゃん』を掲載させるなどの歴史を持ち、現在も続いています。
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