橋本堅太郎は1930年7月に、東京の大平村(現在で言う二本松市)で生まれました。なお父は彫刻家の橋本高昇(こうしょう)として有名です。
元々、橋本高昇は自分の3人の息子の誰かに、彫刻家として継いで欲しい気持ちを伝えており、幼少期から作業場によくいた橋本堅太郎は彫刻家として働く父の姿を見て、旧制となる中学四年生時に同じ道を進むことを決心しました。その為に『海』が知られているブールデル的造形で評判を呼んだ、清水多嘉示からデッサンについて学んだ後に東京芸術大学に入学。学校では高村光雲を師に持ったほか、伝統を守り帝室技芸員としても評価された平櫛田中の教室でも学び1953年に同校を卒業。
そして翌年、第10回日本美術展覧会の第3科に『少女』にて初入選を果たしています。次の年の日展では落選するものの、1956年からは連続で受賞となり、1959年、29歳の頃には日本彫刻会会員となります。
やがて1965年には銀座の松屋にて『橋本高昇・堅太郎彫刻父子展』を開催し、翌年の1966年の第9回新日本美術展覧会において『弧』が特選を獲得。1974年から日展審査員を務め、その後は東京学芸大学の教授としても後進の指導を行いながら作品の製作を続け、1992年の改組第24回日本美術展覧会において発表した『清冽』は文部大臣賞を獲得し、また二本松市が購入となりました。
他にも2000年に日展理事長となるなどして、現在に至ります。
橋本堅太郎は威厳の高い仏像や情感性豊かな女性像など、その数は少ないながら深みのある作品群を描いていると言われています。また『一魂』と言う自身の息子を起点とした作品も描いています。
そして日展に落選した時に多くの寺を回った事もあり、1989年の大本山増上寺開山堂の為の『開山上人像』。1999年の明治神宮神楽殿の為の『狛犬』を作ったりなど、寺・寺院の為の作品制作も多いのが特徴です。
橋本堅太郎は彫刻家になると決心してからも、自身の気持ちは中途半端だったと見つめ直す時期があったようです。そのきっかけは多くの寺を回った事でもあるのですが、日展会館や国立新美術館の大きな転機の時期にも関わりながら、作品制作も欠かす事はしていません。
なお橋本堅太郎としては米寿となってからもまだまだ血気盛んと言った趣旨の発言をしており、実際に技巧は落ちることなく内面の強さのある作品を作り続けています。