森琴石は1843年3月に現在の兵庫県にあたる、摂津国で生まれました。なお本名は梶木熊と言います。有馬にある温泉旅館の息子でもありましたが、物心が付く年齢となる前に大坂にて森家の養子となりました。1850年には大坂を代表する南画家であり、個性派とも言える作風の鼎金城の下で南画のことを学んでいます。
とは言え1862年には鼎金城が息を引き取ったのもあって、その後は兵庫県にあたる津名郡の出身で、「閑居摂養法」や「心遠詩鈔」が知られている漢学家の忍頂寺静村から、南画についてさらに深く指導を受けていきます。また、このとき、漢学についても同時に教わりました。そして1873年には高橋由一から西洋画について習っているなど、日本画以外の様々なジャンルについて知見を深める時期があるのが、生い立ちを紹介するには欠かせないポイントとなります。
なお1875年からは“響泉堂”と言う名前で銅版画師として活動を始め、1877年には王冶梅や胡鉄梅と言った、複数の清国文人画家と繋がりが生まれるのも、森琴石にとっての大きな影響となります。1881年の第2回内国勧業博覧会では銅版作品として『商社株券額』を出し、また同会での第3・4回の場でも出展し受賞。1890年には宮内庁のお抱え画家として務めるようになり、1913年には文展の審査員として活躍。そして文展の審査員になった同年には帝室技芸員となりました。
やがて1921年2月、78歳で息を引き取っています。
森琴石は南画の山水画や銅版による風景画が有名です。活動前半期から響泉堂として描いてきた銅版画は事細かい描写がされており、また詩や書に関しても三絶(他に比べられる人がいないほど優秀)とまで言われる腕前でした。
森琴石は一つの作品を作るにも徹底的にスケッチを行い、また南画家としても、儒学や禅思想について学んでいます。
さらに多数の後進の指導を務めており、例えば『落照』や『雪幕』が知られている嘉本周石もその一人で、他には岩田心斎や脇田水石などもいます。
■南画
中国の元・明・清時代に始まった南宗画のことです。柔らかい筆さばきで描いた情感性のある作風が特徴です。元々は王公貴族や知識人と言った、言わゆる職業として画を描いていない、立場的に上である人達が余興で始めたものとなります。また南画は、彼らの儒教的思想や学問・文化的知識を深めると言った意味合いもあると言われています。
日本においては江戸時代中盤以降になって伝わったと言われているのですが、森琴石や彼の師匠のように職業として絵を描いているので正確には南画ではなく、王公貴族や知識人などを指す文人に敬意を示し、文人画とも呼んでいます。
ただ、明治時代になれば武士が学びを深める一環として南画が取り入られてきました。