Useful お役立ち情報
2019.12.19
ブランド品

桜井浜江【洋画家】

桜井浜江(さくらいはまえ)

 

桜井浜江は19082月に

 

山形県山形市で生まれました。

 

なお画家としての夢は学生時代から持っていたものの

 

15代もの歴史のある地主家の娘として育ったためか

 

美術学校に入るのを両親には反対されてしまいます。

 

しかし1924年に在籍していた

 

山形第一高等女学校から出ると、

 

その反対を振り切り上京し、

 

川端画学校洋画部と岡田三郎助研究所の下で

 

絵を学んでいきました。

 

20歳になった頃からは協会洋画研究所にて

 

自由な作風の

 

フォーヴィズムに影響された作品群で有名な

 

里美勝蔵からの指導を受け、

 

協会洋画研究所所属中の1930年に

 

1回の独立展にて入選。

 

以降出品を重ねていきます。

 

やがて1947年に三岸節子や雑賀文子達と共に

 

女流画家協会を結成。

 

同じ年には第2回新興日本美術展読売賞において

 

出品した『象』と『花』が読売賞を獲得します。

 

1954年には独立美術協会の会員となり、

 

87歳となる1995年には

 

「桜井浜江展-画業65年の軌跡」を開催。

 

そして20072月、99歳の時に息を引き取りました。

 

 

 

作風

 

桜井浜江は、骨太な存在感のあるタッチで

 

作品を描くことで知られています。

 

その初期の代表作と言えるのが

 

1940年代半ばに発表された連作の『壺』です。

 

それまでに描かれていた

 

ファンタジー的な雰囲気はなりを潜め

 

厚塗りで仕上げており、以降発表する作品も、

 

そのような表現が主流となっています。

 

また1950年代に発表した同じく連作の『樹』も

 

『壺』と並ぶくらいの代表作になっています。

 

『樹』シリーズでは赤の色彩で描いているのが特徴です。

 

■力強い作風の裏側

 

またその『壺』や『樹』シリーズで見られる

 

力強いタッチは、自身の置かれている

 

閉鎖的な状況から来ていると言われています。

 

桜井浜江が生きてきた当時は

 

現在よりも女性差別が強いと言われているので、

 

その部分も含まれているのは容易に想像できます。

 

また自身の心の問題と向き合いながら描いてきた

 

とも言われているので、桜井浜江の力強い作風は

 

葛藤の末で生まれた事になります。

 

 

 

情熱を燃やし続けた桜井浜江

 

桜井浜江は手掛けていた『富嶽』を

 

完成する事なく、生涯を閉じました。

 

恐らく無念の思いがあったと思われますが

 

それでも作品は圧倒的な情熱を感じる

 

と言われています。

 

また桜井浜江は他のテイストの作品を手掛けながらも

 

『樹』シリーズに限らず基本的に赤を好み、

 

活動終盤まで力強いタッチをキープするどころか

 

『黒い波』などでますますその情熱を燃やした

 

と指摘されています。

 

赤には情熱や怒りの意味合いが

 

心理的には込められているとされていますが

 

モチベーションを長年持ち続ける事自体も

 

大変だったと思われます。

 

桜井浜江は自身が奥底に眠っている情熱を

 

絶やす事はありませんでした。