桜井浜江(さくらいはまえ)
桜井浜江は1908年2月に
山形県山形市で生まれました。
なお画家としての夢は学生時代から持っていたものの
15代もの歴史のある地主家の娘として育ったためか
美術学校に入るのを両親には反対されてしまいます。
しかし1924年に在籍していた
山形第一高等女学校から出ると、
その反対を振り切り上京し、
川端画学校洋画部と岡田三郎助研究所の下で
絵を学んでいきました。
20歳になった頃からは協会洋画研究所にて
自由な作風の
フォーヴィズムに影響された作品群で有名な
里美勝蔵からの指導を受け、
協会洋画研究所所属中の1930年に
第1回の独立展にて入選。
以降出品を重ねていきます。
やがて1947年に三岸節子や雑賀文子達と共に
女流画家協会を結成。
同じ年には第2回新興日本美術展読売賞において
出品した『象』と『花』が読売賞を獲得します。
1954年には独立美術協会の会員となり、
87歳となる1995年には
「桜井浜江展-画業65年の軌跡」を開催。
そして2007年2月、99歳の時に息を引き取りました。
作風
桜井浜江は、骨太な存在感のあるタッチで
作品を描くことで知られています。
その初期の代表作と言えるのが
1940年代半ばに発表された連作の『壺』です。
それまでに描かれていた
ファンタジー的な雰囲気はなりを潜め
厚塗りで仕上げており、以降発表する作品も、
そのような表現が主流となっています。
また1950年代に発表した同じく連作の『樹』も
『壺』と並ぶくらいの代表作になっています。
『樹』シリーズでは赤の色彩で描いているのが特徴です。
■力強い作風の裏側
またその『壺』や『樹』シリーズで見られる
力強いタッチは、自身の置かれている
閉鎖的な状況から来ていると言われています。
桜井浜江が生きてきた当時は
現在よりも女性差別が強いと言われているので、
その部分も含まれているのは容易に想像できます。
また自身の心の問題と向き合いながら描いてきた
とも言われているので、桜井浜江の力強い作風は
葛藤の末で生まれた事になります。
情熱を燃やし続けた桜井浜江
桜井浜江は手掛けていた『富嶽』を
完成する事なく、生涯を閉じました。
恐らく無念の思いがあったと思われますが
それでも作品は圧倒的な情熱を感じる
と言われています。
また桜井浜江は他のテイストの作品を手掛けながらも
『樹』シリーズに限らず基本的に赤を好み、
活動終盤まで力強いタッチをキープするどころか
『黒い波』などでますますその情熱を燃やした
と指摘されています。
赤には情熱や怒りの意味合いが
心理的には込められているとされていますが
モチベーションを長年持ち続ける事自体も
大変だったと思われます。
桜井浜江は自身が奥底に眠っている情熱を
絶やす事はありませんでした。