板垣退助(いたがきたいすけ)は1837年に土佐(高知県)で生まれました。なお父は倒幕派の土佐藩武士の乾正成と言う人物です。
幼少期は勉学が好きではなく、幼馴染で、のちに同じ舞台で活躍することとなる後藤象二郎や他の子供とも、その正義感からよくぶつかり合うわんぱくな性格で、時には謹慎を受けるほどでした。成長すると兵法書『孫子』などをよく読み学んだほか、一時期は追放の上、廃嫡処分となっていましたが無事家督を相続。税務官として藩政に携わっていき、20代前半の頃には土佐藩の参政であった吉田東洋からも評価されていたのをきっかけに免奉行就任。その後も江戸留守居役となり上京すると、15代目土佐藩主の山内容堂の側付き用人なども務めたほか、この頃から尊王攘夷を唱えています。
その後、尊王攘夷活動への弾圧が強まる中で土佐に戻りますが、1865年には江戸で洋式の兵法を学び、30代になるとより積極的な活動に移っていきました。中岡慎太郎や西郷隆盛と共に、倒幕を視野に入れた薩土密約を結び翌年には土佐藩の軍を指揮。倒幕派と幕府派の争いである戊辰戦争時には日光東照宮を守ったり、群衆の心を一つにまとめようと奔走しています。1871年には参議として就任しますが、待望していた征韓論が叶わなかった事で、36歳の時には西郷隆盛らとともに参与の職を辞職しました。
それからは自由民権運動を掲げるようになり、愛国公党や立志社を立ち上げ演説を実施。1881年に自由党の総理として勤め上げ、就任中には暴漢に襲われるなどしますが、そのほか内務大臣にも抜擢されるなど後年も政界で活躍していきます。
やがて1900年、60代となった板垣退助は政治の世界から身を引き、晩年は機関紙『友愛』を出し文章によって世間に考えを伝えたほか、政党の相談役なども務めました。
そして1919年、82歳で息を引き取っています。
このように倒幕派として活動してきた所は、大きな特徴のひとつといえるでしょう。一方で土佐藩の上級藩士の中では、その考えをする人は少なかったようです。
板垣退助は武力こそが日本救済の道と考えており、藩の軍制改革に乗り出したり戊辰戦争時には旧幕府勢力に多大なダメージを与えました。
この部分だけ見ると現代では過激にも感じられるかもしれませんが、後述する自由民権運動は国民の政治参加と言う、本当はあって当然である事を提案しました。
幼い頃から血気盛んだった板垣退助は退かない性格で、当時の藩主から苦言もされていると言ったような記述もあります。
他には1860年には免奉行になった際も、武力を好んでいたので当初は内容に否定的だったものの吉田東洋のアドバイスで受け入れたようです。
しかししたたかな性格ではなく、名誉や利益を重視はしていませんし、暗殺されかけ復帰した時もその相手を強く非難しませんでした。
関連書
1904年発表の機関紙『友愛』。1911年発表の『社会政策』。また『武士道観』や『板垣退助全集』なども出しています。
■征韓論
侵略のための朝鮮進出を唱える主張、または政策のことを指します。
明治維新政府から朝鮮に持ちかけられた修好条約に、朝鮮が拒絶を続けていたことから、政府内部で反朝鮮の意識が高まっていきました。板垣退助は出兵を、また西郷隆盛は交渉ののちの出兵を主張していましたが、岩倉具視ら穏健派はそれに反対。この論争から政府内でも対立が起き、当時の政治状況を左右した出来事として知られています。
■自由民権運動
征韓論が叶わなかった板垣退助が次に打ち出した考えで、国民の政治介入を呼びかけたものです。
1874年に江藤新平と後藤象二郎と共に愛国公党を立ち上げるなどして、また具体的には不平等条約の改正を防いだり、言論と集会の自由などを提案して薩摩や長州。土佐や肥前から成り立つ藩閥政治に対抗しました。