松方正義は1835年に薩摩(現在の鹿児島)で生まれました。10代前半の頃には薩摩藩士であった父・松方正恭と母を共に亡くしていますが、藩校の造士館にて勉学に励み、1850年頃には御勘定所出物問合方に務めるようになります。約7年の間働き、この間には大番頭座書役に就いたほか、その真面目な勤務態度が藩主にも認められ、給与としての米や金を賜りました。また活動の評価はお金の下賜のみならず、薩摩藩主となる島津久光の側近を命じられる形にもなっています。
以降は御船奉行添役として長崎で学び、明治維新が起こった1868年は新しく立ち上がった日田県(現在の大分県)の知事に就任。産業振興などで発展に貢献するなど1870年まで勤め上げました。県知事としての活躍から、大久保利通に認められた松方正義はその後、民部大丞や租税頭になるなどして、土地や税制改革を実施。1875年には、大蔵大輔に就任しています。
40代になると勧業局長兼仏国博覧会での副総裁として欧州へ渡りますが、帰国後、1880年には内務卿に就任。また翌年には政界から追放された大隈重信の代わりに参議兼大蔵卿となり、1877年に起こった西南戦争で混乱していた経済に対して大胆な改革を決行しました。その一環で日本銀行を設立しています。
やがて1885年には初代大蔵大臣の職に就き、約7年勤め上げました。この間には兼任で内閣総理大臣を務めており、また1896年にも2度目となる内閣総理大臣に就任。以降も政界に携わりますが、一方で世界各地の要人との交流も深め、すでに70代となった1903年にはイギリス国王より勲章も授けられています。
晩年も後進の主導に携わり、1924年、89歳で息を引き取りました。
松方正義はこのようにして、数々の立場で政治の世界に務め多くの改革を行ってきたのが特徴的です。
また貧しい時期から、島津久光の側近となったと言う逆転劇のような見方もされています。
なお他にも子供に対するあまりにも悲惨な現状を受けて、1869年に医者と共に日本で初めての孤児院となる養育館を設けてもいます。
日本銀行を立ち上げた際は金本位制を施行し、他には1884年には兌換銀行券を出すなど数多くの政策を行ってきました。
ただ日本銀行設立時はデフレが発生し、国民から反乱が起こるなど情勢の不安定さからなる政治の混乱にも見舞われます。しかしその中にも発展があった事から松方財政や松方デフレとも呼ばれています。
関連書
金本位制度採用20年記念会においての松方正義の口演を記した書。その他は『松方家萬歳閣資料』(大東文化大学東洋研究所が所蔵)。
『松方家文書』(国立国会図書館が所蔵)などがあります。
■造士館
1773年に造られました。薩摩が日本の最も南である事から武士教育が行き届いていない不安があったのがその理由です。
なお薩摩では教師と言う立場を入れず、先輩が後輩に教える郷中教育が一般的です。
造士館もその中の一つとして組み込まれている側面があり、年長者は造士館へと向かいました。