Useful お役立ち情報
2020.02.13
骨董品

松久宗琳【彫刻家】

松久宗琳(まつひさそうりん)

 

松久宗琳(本名:松久武雄)

 

19262月に埼玉県で生まれました。

 

12歳で小学校を出ると、若くして仏像彩色師である

 

八木秀蔵の元で住み込みで働きはじめます。

 

また、日本画についても指導を受けました。

 

その後10代半ばには、大きな病気をした関係で

 

足を失ってしまいますが、自身の生きる希望は捨てず

 

翌年には仏師になる為に奈良や京都などで

 

様々な時代の仏像について学んでいきます。

 

そして戦時中は陸軍からの依頼で、

 

成吉思汗像に金箔を付ける作業と家具制作をする為に

 

満州へ赴きました。

 

終戦したのちは1948年に、木彫家で

 

洋風彫塑を取り入れた佐藤玄々の下で学び

 

まもなくして陶芸家である河井寛次郎と交流し

 

用の美と言った概念に影響を受けています。

 

以降も多大に実績を積み上げ

 

40代から50代にかけては京都仏像彫刻研究所に入り

 

宗教芸術院を設立。

 

また、大阪の四天王寺の講堂に安置するための

 

『昭和の丈六阿弥陀仏』の製作に着手。

 

同作品はその2年後に造り上げ、

 

大仏師の名を渡されることとなりました。

 

やがて1980年には成田山新勝寺の1150年御遠忌記念の

 

五大明王の受注により、家族と大勢の弟子達とで

 

世界で一番の大きさとなる木像を

 

1983年に完成させ成田山大仏師となっています。

 

 

 

関連用語の細かい解説

 

■佐藤玄々

 

1888年に宮彫り師を営む一家の下に生まれました。

 

幼少期から木彫の技術について学び、

 

代表作としては1960年の高さ11mとなる大作

 

『天女像』が知られています。

 

1906年には山崎朝雲から学んだり、

 

1922年には2年間のフランス留学で

 

アントワーヌ・ブールデルから指導を受けました。

 

■河井寛次郎と柳宗悦

 

島根県出身で中国と朝鮮の古陶磁から

 

影響を受けています。

 

なお用の美自体は民芸運動を立ち上げた同士である

 

柳宗悦が提案したもので、鑑賞用になりすぎて

 

日常使いから程遠くなった日本の工芸品は

 

日常で使ってこそ美しさが出るもの

 

という考えのものです。

 

また河井寛次郎自体の作品にも用の美の影響が現れ

 

重厚さがありながらも

 

素朴な雰囲気が漂う作品として昇華しています。

 

・宗教芸術院

 

それまでの仏像彫刻は閉じられた世界であり

 

それを良しとしていなかった

 

松久宗琳と朋琳の親子により提唱されています。

 

現在でも一般的な教室のように

 

開かれた場となっており作品製作も行われています。

 

・大仏師

 

仏師のリーダー的存在及び、多くの仏師の頂点に立ち

 

大型の仏像製作を行う人を指します。

 

 

 

仏像製作について深い愛を注いだ松久宗琳

 

松久宗琳は「自分ほど仏像製作について

 

深い愛を注いだ人は存在しない」と言った趣旨の

 

発言を残しています。

 

確かにこのように振り返ってみても

 

否応なしに伝わることです。

 

そして作品は一万体以上も製作しているようで

 

その情熱は疑いのない事実である事が分かります。