松久宗琳(まつひさそうりん)
松久宗琳(本名:松久武雄)は
1926年2月に埼玉県で生まれました。
12歳で小学校を出ると、若くして仏像彩色師である
八木秀蔵の元で住み込みで働きはじめます。
また、日本画についても指導を受けました。
その後10代半ばには、大きな病気をした関係で
足を失ってしまいますが、自身の生きる希望は捨てず
翌年には仏師になる為に奈良や京都などで
様々な時代の仏像について学んでいきます。
そして戦時中は陸軍からの依頼で、
成吉思汗像に金箔を付ける作業と家具制作をする為に
満州へ赴きました。
終戦したのちは1948年に、木彫家で
洋風彫塑を取り入れた佐藤玄々の下で学び
まもなくして陶芸家である河井寛次郎と交流し
用の美と言った概念に影響を受けています。
以降も多大に実績を積み上げ
40代から50代にかけては京都仏像彫刻研究所に入り
宗教芸術院を設立。
また、大阪の四天王寺の講堂に安置するための
『昭和の丈六阿弥陀仏』の製作に着手。
同作品はその2年後に造り上げ、
大仏師の名を渡されることとなりました。
やがて1980年には成田山新勝寺の1150年御遠忌記念の
五大明王の受注により、家族と大勢の弟子達とで
世界で一番の大きさとなる木像を
1983年に完成させ成田山大仏師となっています。
関連用語の細かい解説
■佐藤玄々
1888年に宮彫り師を営む一家の下に生まれました。
幼少期から木彫の技術について学び、
代表作としては1960年の高さ11mとなる大作
『天女像』が知られています。
1906年には山崎朝雲から学んだり、
1922年には2年間のフランス留学で
アントワーヌ・ブールデルから指導を受けました。
■河井寛次郎と柳宗悦
島根県出身で中国と朝鮮の古陶磁から
影響を受けています。
なお用の美自体は民芸運動を立ち上げた同士である
柳宗悦が提案したもので、鑑賞用になりすぎて
日常使いから程遠くなった日本の工芸品は
日常で使ってこそ美しさが出るもの
という考えのものです。
また河井寛次郎自体の作品にも用の美の影響が現れ
重厚さがありながらも
素朴な雰囲気が漂う作品として昇華しています。
・宗教芸術院
それまでの仏像彫刻は閉じられた世界であり
それを良しとしていなかった
松久宗琳と朋琳の親子により提唱されています。
現在でも一般的な教室のように
開かれた場となっており作品製作も行われています。
・大仏師
仏師のリーダー的存在及び、多くの仏師の頂点に立ち
大型の仏像製作を行う人を指します。
仏像製作について深い愛を注いだ松久宗琳
松久宗琳は「自分ほど仏像製作について
深い愛を注いだ人は存在しない」と言った趣旨の
発言を残しています。
確かにこのように振り返ってみても
否応なしに伝わることです。
そして作品は一万体以上も製作しているようで
その情熱は疑いのない事実である事が分かります。