木村立嶽(きむらりつがく)
木村立嶽は1827年に越中富山にて生まれました。
幼いころから絵を学んでおり、
その才能から推薦され江戸へ行くと
当時の江戸を代表する画家で、中国や日本に
古くからある作品の模写を行い続けた狩野養信や
江戸幕府の御用絵師として活躍した狩野雅から
指導を受けていきます。ここで腕を磨くと、
のちには橋本雅邦や狩野芳崖。狩野勝玉と並んで
狩野派四天王の一人として
挙げられるようになりました。
作品は山水楼閣図や人物画を得意とし
やがて富山藩や幕府の御用絵師として活躍。
倒幕となった明治維新後は東宮御所や
図書局の絵画に貢献するなどしていきます。
そして1890年9月、64歳で息を引き取りました。
代表作としては華麗な世界観の『千歳御殿図屏風』や
七福神の中の一神を描いた『福禄寿図』
などがあります。
狩野派について
狩野派の始まりは室町時代からで
室町幕府のお抱え絵師である
狩野正信がその始祖です。
それまでの日本の絵画は水墨で描いた漢画や
歴史絵のようなカラフルな大和絵に
人気が集まっていましたが、
狩野正信はその2つの良いところを合わせて
仏画や障壁画。肖像画と言ったような
作品群を展開しました。
またそれでいて仏教の禅宗的な雰囲気がなく
明快な作風は当時の武家に支持され、
また息子の狩野元信を
2代目として継がせるなどして
400年と続く一大一派となりました。
木村立嶽の立ち位置について
木村立嶽の師匠の一人である狩野養信は、
江戸時代後半に活躍した狩野派の中でも
9代目にあたります。
狩野養信が活躍した時期には他の一派が
革新的な絵を描いていきましたが、
狩野派はお手本に忠実に描く粉本主義として
非難されていきました。
創作主義が乏しいと言われていたので
革新的な他の一派よりも立場が弱いとも言えます。
そうした中、木村立嶽は日本画に
洋風の写実的表現を最初期に取り入れ、
それは粉本主義の脱出でもあると同時に
時代に対応した作風を確立していきます。
他にも狩野芳崖や橋本雅邦が頭角を見せ、
近代日本画を指示する立場となりました。
新しい日本画の創造にも参加
また木村立嶽は狩野芳崖や橋本雅邦と共に
アーネスト・フェノロサが唱えた
新しい日本画の創造に参加しました。
アーネスト・フェノロサは
1884年に鑑画会を開いたり、
また岡倉天心と組んで
東京美術学校の設立に務めるなどして
日本画の普及に取り組みました。
日本画では国内においては明治維新の気風もあって
あまり重要視されておらず、
そこでアーネスト・フェノロサが
その良さを説いていったのです。
日本画に貢献した木村立嶽
木村立嶽は狩野派の中でも
あまり取り上げられていない
人物であるように感じます。
しかし洋風を取り入れた作風を
率先して行ったりなど、これからもっと
注目されて欲しい点が沢山あります。
木村立嶽を通して、歴史的背景などにも
視野を広めると面白いかもしれません。
片づけ始める前にご相談ください
眠っている品物に思わぬ価値がある場合があります。
遺品整理業者・リサイクル業者は、骨董美術品類に高額をつけることはできません。
さらに処分費もかかります。無料査定・買取で賢い遺品整理・蔵整理をお勧めいたします。
買取専門店KURAYAは,骨董品,金・プラチナ、ブランド品、ブランド時計、ダイヤモンド、切手、古銭、勲章、日本刀・鎧兜、掛け軸・絵画、版画、おもちゃ・ノベルティ、 高級食器、珊瑚、翡翠・鼈甲・琥珀、カメラ、鉄道模型,、着物・小物、鉄瓶・茶道具 ,墨・書道具など確かな目で高額買取いたします。
買取専門店くらやは、新しいもの・古いもの、どんなお品も対象に鑑定する買取専門店としてオープンいたしました。貴金属・ブランド品買取をはじめとし、 古物・切手の買取・骨董品の買取に力をいれております。 ご自宅に眠っている貴金属・ブランド品・骨董品などはございませんか?古物・貴金属・ブランド品などを整理したい方、 現金が必要な方、お引越しで荷物を整理したい方、遺品整理、古い蔵を取り壊して中身を処分したい方など、様々なお客様からご利用いただいております。
新しい物・古い物、どんなお品も対象に査定する