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2016.12.17
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木村武山―仏画の名手―

木村武山とは
―日本画の近代化に尽力した日本画家―

茨城県笠間市出身の木村武山は、豊かな色彩感覚と優れた技法を生かして歴史画、花鳥画や仏教画を描いた日本画家です。

 

また、明治から昭和の初めにかけて岡倉天心の陶酔を受け、横山大観、下村観山、菱田春草らと共に日本画の近代化や日本美術院再興に尽力した日本画家でもあるのです。

 

・優れた技法と豊かな色彩感覚を備えた武山

武山は旧笠間藩士であり現在の常陽銀行の設立者である木村信義の長男として、現在の茨城県笠間市に1876年に生まれました。

 

2歳頃になると武山はすでに南画家の桜井華陵に師事し、12歳頃には武山の号を用いていました。

 

上京してから開成中学校に入学して川端章に師事し、1891年に東京美術学校に入学し岡倉天心の陶酔を受け、さらに教授であった下村観山の影響も強く受けました。

 

卒業後は日本画研究科に進み、1898年には日本美術院にも参加して美術院を支える中心的な日本画家になっていきました。

 

1906年になると天心の薦めもあり、横山大観、下村観山、菱田春草たちと北茨城にある五浦に移住し、創作活動に没頭しました。

 

五浦で描かれた作品の「阿房劫火」は第一回文展、「孔雀明王」は第四回文展に入賞し、日本画家の地位を築きました。

 

1914年、日本美術院の再興に参加して美術院発展のために貢献し、豊かな色遣いで描かれた春を思わせる屏風絵、「小春」を再興第一回展出展しました。

 

武山の画風は、花鳥画や仏教画の中に優れた色彩感覚や写実的な描写技法を生かして描いているところです。

 

大正初期の武山の作品には琳派の技法も取り入れており歴史画が多かったですが、20代後半になると次第に花鳥画が中心となり、晩年は仏教画を多く描くようになりました。

 

晩年の武山は仏教画を多く描くようになり、高野山金峰寺金堂壁画を完成させています。

 

1937年、脳内出血で倒れて右手が利かなくなった武山は、郷里の笠間で静養しながら左手で絵筆をにぎり創作活動をしていたので「左武山」とも呼ばれていましたが、太平洋戦争中の1942年に武山は喘息により東京で亡くなり、67歳の生涯を閉じました。

 

・評価されにくかった武山の作品

武山は日本画の近代化に向けて岡倉天心の一翼を担った画家でしたが、武山の作品は観山や大観に比べて評価されにくかったです。

 

武山の持っている多彩で幅広い芸術性が、逆に武山の特徴を捉えにくくしてしまったのではないのでしょうか。

 

茨城県笠間市の笠間稲荷近くの造り酒屋さんの蔵には、「木村武山記念館」があり、2階建ての蔵が記念館となっています。

 

館内には武山の掛け軸の作品などが展示されているので美術館とは異なり間近で鑑賞することができますが、大観や観山と同じように武山の作品が“なぜ”正当に評価されなかったのか、その原因を見つけることは至難のように思われます。

 

(まとめ)

武山は横山大観、下村観山、菱田春草らと共に明治から昭和初期にかけての日本画の近代化や日本美術院再興に貢献しました。

 

武山は作品を通して、優れた色彩感覚や写実的な描写力のある芸術性の高い美しさだけでなく、希望や励ましを我々に与えてくれる画家ではないでしょうか。