朝倉文夫は1883年に大分県で、
上井田村の村長の子として生まれました。
19歳で上京すると翌年に
東京美術学校の彫刻選科に入学し、
彫塑制作を学びます。
24歳の時には研究科へと進み、
「朝倉塾」を開き子弟を育成しました。
やがて、第2回文展に「闇」を出品すると
最高賞の2等を受賞します。
これを皮切りに翌年の文展では
「山から来た男」で3等を受賞し、
20代後半には「墓守」を発表したあと
シンガポール、ボルネオに渡り、
帰国後は文展で立て続けに上位入賞を獲得しました。
また、第10回文展では34歳という若さで
最年少審査員を務めました。
その後も東京美術学校の教授や
帝国美術院会員を勤めたほか、
後の「朝倉彫塑館」の前身「朝倉彫塑塾」の開設や
大隈重信像の制作に従事しています。
これらの功績が認められ、1944年、61歳の時に
帝室技芸員に任命されました。
戦後は、自然主義に立ち写実描写に徹しました。
1948年に第6回文化勲章受章、
翌年には日展運営会の常務理事に就任し、
1952年には文化功労者、
その後も多くの要職を歴任しています。
朝倉文夫の作品は代表作「墓守」が一転換になり、
それ以降は一貫して自然主義的写実を軸に据えて
制作活動を行い、朝倉イズムの手法と呼ばれました。
朝倉文夫の手法はその後の文展や帝展での
彫塑の典型を作ったと言われています。
作品は精緻な技巧と堅実な写実性で表現されています。
そのほか、初期の作品である「闇」や
「山から来た男」には、
文学的思考が色濃く見受けられます。
また、朝倉文夫はかなりの猫好きとして知られています。
彫刻家自身の60周年を、
東京オリンピックの開催と合わせ
「猫百態」展を企画していたほどです。
その企画は彼の病死により
叶わないものとなりましたが、
朝倉彫塑館には58点の猫作品が所蔵されています。
朝倉文夫は、「東洋のロダン」と呼ばれる程に
精巧で表現豊かな数多くの名作を
世に発表しています。
また、彫刻家として活躍する一方で
朝倉彫塑塾を創設し、後進の育成にも尽力しました。