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2020.11.12
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曾山幸彦とは【経歴/作品/特徴/洋画家】

曾山幸彦の生い立ちは?

曾山幸彦(そやまさちひこ)186012月に鹿児島県で生まれました。叔父の高崎正風は歌人として知られています。曾山幸彦は幼い頃に父が亡くなったことで生活が厳しく、のちに兄共々、海軍に入隊するための教育を受けるため上京しました。この教育は叔父の考えによるもので、兄はそのまま海軍に進み経験を積んでいくこととなりましたが、曾山幸彦は上京後に高崎正風によって絵の才能を見出されています。これがきっかけとなり、10代半ば頃には工部美術学校に進学。イタリア人画家のサン=ジョバンニから教わるようになりました。

なお同校では彫刻家のヴィンチェンツォ=ラグーザや、図学を教えているジョヴァンニ=ヴィンチェンツォ=カッペレッティと言った他のイタリア人教師からも指導を受けました。在学中にはサン=ジョバンニの画学助手を務めたほか、1881年の第2回内国勧業博覧会では『弓術之図』を発表。1883年に修業証を獲得し、同じ年には工部省御用掛となっています。

 

その後は展覧会の審査員や、工科大学の助教授を勤め始めたほか、自身の家に塾を開いて数多くの後進を育てていきました。1889年には明治美術会の設立に加わり、また次の年の第3回内国勧業博覧会では『武者試鵠図』を発表し受賞しています。

そして1892年、32歳の若さで息を引き取りました。

 

なお1890年に大野家の養子になっていますので、大野幸彦と呼ばれる事もあります。

 

 

 

曾山幸彦の活動の特徴は?

曾山幸彦は自身の培ったイタリアの絵画技法によって後進の指導を行い、藤島武二や岡田三郎助、和田英作などと言った名を残す画家を多く輩出しました。

なおその教育方法は徹底的であると言われており、デッサンを非常に重視し、生徒たちへの教育ではデッサンの1作品に何日もかけさせることもあったと言われています。

本人の作品は、残念ながら若くして亡くなったため多くは残されていませんが、指導と同じく、精巧なデッサンを基盤とした作品が多く見られます。

 

 

 

曾山幸彦は評価の背景は?

このようにして後輩を多く育てた曾山幸彦ですが、時代の波に翻弄されてきた一面もあります。

工部美術学校は洋画を教える事を排除する動きが、アーネスト=フェノロサや岡倉天心などによって強まった事で1883年に閉校となりました。曾山幸彦はそこで堀江正章や松室重剛と共に、翌年、私塾の画学専門学校を立ち上げたのですが、次の年には経済面と管理面の事情で閉まる事となっていたのです。

 

代表作

 

1890年発表の『日光陽明門』。

1891年発表の『婦人像』などがあります。

 

 

 

各ワード紹介

■サン=ジョバンニ

工部美術学校に依頼された事で来日となったイタリア人画家です。

絵画のほか彫刻についても優れた才能を持っており、多くの後進を育てましたが、工部美術学校が廃校になった事で日本での指導を辞め帰国しました。

 

■工部美術学校

1876年に工部省によって、日本で初めて設立された官立美術学校です。当時、美術の分野における先進国として認められていたフランスではなく、全てイタリア人の美術教師に依頼する事で洋画の技術を学んでいました。

1878年にその教師のアントニオ・フォンタネージが辞めたり、1882年には彫刻科が無くなるなど様々にかたちを変え、ついに1883年、廃校となっています。