斎藤茂吉は1882年に、山形県上山市で生まれました。農家の子でしたが実家の菩提寺の住職や周囲からの影響を受け、幼い頃は宗教や書画などにも興味を持っていたと言われています。その後10代半ばの頃に才能を見込まれ、浅草で医師をしていた斎藤紀一の世話になることになると、東京の中学校に転校。医学を学び医者を志すようになった斎藤茂吉は、20歳で医学部のある高校に進学した一方で、文学作品にも強く興味を持つようになりました。
在学中は小説家の幸田露伴の作品や正岡子規の遺稿集などを愛読し、和歌に夢中になり、24歳の時には正岡子規の門下生であった歌人・伊藤左千夫のもとに訪問。師弟関係となると本格的な短歌の制作を始め、同年には歌誌『馬酔木』にて制作した和歌が掲載されることとなっています。より一層和歌に打ち込んでいった斎藤茂吉は、2年後に歌誌『アララギ』が立ち上がった際には自作の23首の短歌が掲載され、同誌の代表的な歌人として知られていきました。
1910年、東京帝国大学医科大学を卒業すると同大学助手の立場となり、精神医学について学んでいきます。この間には前述した斎藤紀一の養子となったほか、医師として職に就きながら歌人としての活動も並行して行っており、31歳で歌集の『赤光』を出版。各界から評判を得、正岡子規の系譜を受け継ぐアララギ派を象徴する一人となりました。
以降も長崎の医学専門学校で教鞭を執り、また精神医学の研究を深める為オーストリアやドイツに留学するなど、医師としての知識や腕を磨いていきます。同時に歌集『あらたま』の出版や、44歳の時には歌誌『アララギ』の編集発行人に就任するなど、医師と歌人の2つの道で励みました。
やがて50代の時には帝国芸術院会員として認められ、その3年後には長らく研究していた『柿本人麿』についての著書によって帝国学士院賞を獲得。晩年は第二次世界大戦の戦禍を逃れて疎開し、終戦後は東京に戻り文化勲章を受章しています。
そして1953年、70歳で息を引き取りました。
斎藤茂吉の作品には自ら提案した実相観入という、ただ対象物を忠実に表現するだけでなく、自身の事を当て込む手法を取っている所に特徴があります。
また万葉集の学者としてその研究にも力を入れており、万葉集の解説本として『万葉秀歌』を1938年に発表しました。
ちなみに雄島濱太郎名義で和歌や小説なども出しています。
斎藤茂吉は近代短歌を作り上げたと言われており、生涯の内に主要なものだけでも歌集は15冊以上、また作品が掲載された雑誌も非常に多くあります。
このように歌人としても十分に活躍していますが、1924年には青山脳病院の院長となるなど医者としても勤め上げました。
なお自ら和歌作りを「本業以外の遊び」だと言う趣旨で表現している所、いかに真面目に生活していたかが伝わります。
代表作など
1895年の凧絵『桃太郎』
1949年発表の歌集『白き山』
1951発表の歌集『石泉』『霜』(3つとも斎藤茂吉記念館が所蔵)
などがあります。
■伊藤左千夫
江戸末期の生まれの小説家、または歌人です。正岡子規の名を広めた貢献者とも言われており、正岡子規の作風に影響を受けた代表作『野菊の墓』や、そのほか斎藤茂吉と同じく『馬酔木』や『アララギ』などの短歌雑誌に作品を掲載しました。
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