斎藤与里(さいとうより)
斎藤与里(本名:与里治)は、1885年9月
に現在の埼玉県加須市で生まれました。
1905年に京都に出ると、
堅実性のある写実的作風ながら
詩情感漂う世界観で知られている浅井忠。
ジャン・ポール・ローランスの写実性に影響を受け
また肖像画や風景画に優れている事で有名な
鹿子木孟郎から学んでいきます。
1906年には鹿子木孟郎と共にパリに渡り
そこでは後期印象派のポール・セザンヌや
象徴主義作家として有名な
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ。
またフォービスムについても、
画塾アカデミー・ジュリアンに入ることで
知識を得ていきました。
約2年間の滞在を終え日本に帰ると
東京の新宿・中村屋で
高村光太郎や荻原守などと出会い
また岸田劉生とも親交を深め
1912年にはフュウザン会を結成。
なお帰国後は文筆活動も行っており
雑誌『白樺』などを使って、後期印象派を
初めて日本に伝える役割を果たしています。
フュウザン会は翌年となる
1913年に解散していますが、
大阪美術学校の設立や美術団体の槐樹社に加わったり
また東光会を立ち上げるなどし、
斎藤与里はそこで会頭を務めるなどしています。
その後1915年に第9回文部省美術展覧会の場において
出品した『朝』で初入選。
翌年の第10回文部省美術展覧会で
発表した『収穫』は、文展最初の特選となるなど
活躍を続けていきます。
1959年には加須市の名誉市民第1号に推薦されますが
同年の5月に息を引き取りました。
作風
斎藤与里は技術を磨いてくことが優先されていた
美術界の中で、次第に独自性を発揮し
日本近代美術史を象徴する作家になった
と言われています。
なお画塾アカデミー・ジュリアン入門時は
学んでいる日本人は少なく、
技術としても未熟な部分が多かったとの事ですが
斎藤与里はその中で、
次第にその実力を発揮してきました。
初期の作品は西洋美術の影響が強く感じられる
作品を発表していますが、
後に田舎の風景を自然体で描く、
平面的で独特の穏やかな雰囲気のある作品群を
展開するようになります。
関連用語の細かい解説
・後期印象派
イギリスの美術批評家ロジャー・フライがきっかけで
1910年に開いた「マネと後期印象派展」が
その言葉の元となっています。
ポール・セザンヌやフィンセント・ファン・ゴッホ、
ポール・ゴーギャンの三人を現す事が多いそれは
他の作家も含む言葉として定義され
外の景色をそのまま捉えようとする印象主義から
具体的な構築の見える作風を
取り入れた時期も指しています。
・象徴主義
19世紀終盤のフランスで誕生。
客観性よりも主観を重視し、
内面にあるものを表現しています。
なお絵画に限らず詩や文学、音楽なども指します。
積極的に活動した斎藤与里
参加した槐樹社は
その活動自体は積極的でありますが、
同時に内部崩壊が起きました。
それを受けて解散となり
信頼できる仲間とだけで東光会を設立し
活動終盤まで面倒を見たとのことです。
他にも活動終盤までの20年間は故郷の加須にて
「草香居」と言うアトリエで、
目まぐるしく作風を変えながら制作していきました。
一貫して作風を保持していない分
斎藤与里の作品経歴を見ると、
自身が見て学んだり、感じたりした事が
分かりやすく感じられるかと思います。
なお『白樺』での文筆活動に限らず
『中央公論』や『婦人公論』の場で
文章を発表するなど、芸術や社会についても
意見を示した事で有名です。