成島柳北(なるしまりゅうほく)は、1837年に東京の浅草で生まれました。また父は奥儒者(将軍の侍講)の成島筑山ですが、その父とまた祖父より、幼少期から詩文について学びます。
その後、10代半ばには家督を相続。翌年からは見習いとして奥儒者を勤め、1855年には父が手掛けた『後鑑』と、祖父が携わった『徳川実紀』など史書の編修を行っていきました。徳川家の将軍にも侍講を行うなど要職についていましたが、一時は方策が通らないことに憤り、狂歌で批判を示したことで、まもなく侍講の職を解かれています。この頃から英語について知識を深め、また柳河春三を代表する洋学者たちとの交流を重ねる事で、西洋の知識にも強くなりました。1865年には幕府陸軍の歩兵頭並として務め、2年後には外国奉行になるなどして幕府に仕えていますが、明治維新が起こり新政府となった際には辞任します。
やがて1872年に、東本願寺の僧・大谷光瑩につき従う形で欧州・アメリカを渡り、2年後の1874年に『柳橋新誌』を発表。同年には『朝野新聞』の社長に就任しました。また1877年には文系雑誌となる『花月新誌』を出すと言ったように、日本の文壇でも活躍していきました。
そして1884年、48歳で息を引き取っています。
奥儒者として政府に付き添い、文章を編集した後に日本の内部批判と言える活動を文筆表現で開始。特にそれは明治維新後に目立つようになったと言う点が特徴的です。
他には奥儒者時代には徳川家定と家茂に経学を教えていた事。古銭のコレクターとしても知られた存在でもあります。
成島柳北はジャーナリズムを幕末・明治中盤に打ち立てた人物だと言われています。
朝野新聞上でも明治前に狂詩を手掛けていたように風刺精神に富んでおり、また政府から圧力をかけられても、それに屈せずに姿勢を貫いてきたようです。
明治維新後は自身を役に立たないように見えて役に立つ「無用之人」と表現していたのですが、その言葉には文章で批判をする理念が隠されているのが伺えます。
代表作
『後鑑』は室町幕府の歴史をまとめた書で1853年に完成しました。江戸幕府の指示で作られており成島筑山が亡くなってからは成島柳北が引き継ぎました。(原本は1923年の震災で失っています)
他には『柳橋新誌』と言い、1874年に出された随筆集があります。
江戸から明治で移り変わる時代背景を綴っていますが、文明開化に対する批判が込められていると言った指摘もあります。
■朝野新聞
元は1872年に出された『公文通誌』で、成島柳北の他に党首・板垣退助を批判した経歴も知られる末広鉄腸の文章でも支持を獲得しました。
しかし政治家・西郷從道をリーダーとした国民協会の広報紙になるなどして信用を失い、1893年に活動が終わりました。
■花月新誌
1877年に出し成島柳北が病没する1884年まで、合計155号まで発表されました。
文人志向が前面に出ており、成島柳北の手掛けた詩文や和歌なども載っていました。