徳川斉昭は水戸藩の部屋住込みの藩士から水戸藩主になり、藩政改革や幕政に尽力し、幕末から明治維新の改革に大きな影響を与えましたが、優秀な改革力は逆に敵を増やす結果を招き、「安政の大獄」や「桜田門の変」などを引き起こす要因となりました。
斉昭は第7代水戸藩主・徳川治紀の3男として生まれたので藩主になる可能性は全くなく、部屋住みの藩士の一人として生涯を終える予定でした。
しかしながら父親の藩主徳川治紀は、長男の斉修に万が一のことがあった場合を考慮して斉昭を藩主候補にしていたので斉修の亡き後、第9代藩主になることができました。
斉昭が取り組んだ藩政改革の「4つの義」は、改革派家臣である藤田東湖や会沢正志斎らと共に行いました。
この「4つの義」の改革は、藩内の全領土を検地する「経界の義」、藩の家臣を水戸藩の領地内に土着させて軍備体制の強化を図る「土着の義」、弘道館や郷校の開校によって藩士の育成を図る「学校の義」、家臣や藩士たちの江戸常住である「定府制」の廃止を薦める「惣交代の義」でした。
さらに、斉昭は藩政改革の一つとして水戸の偕楽園も造りました。
偕楽園の「偕」は水戸藩の領民、そして「楽」は偕楽園で藩主斉昭が領民と共に楽しむことを願ったことを意味しているので、偕楽園の計画は斉昭自ら行いました。
また、「惣交代の義」の改革による「定府制」廃止は、幕府を敵にまわす結果となりました。
斉昭の改革力は優れていましたが敵を増やし、幕府との対立も強くなってきました。
特に将軍継嗣問題と開国政策に対する家斉と大老井伊直弼の対立は「安政の大獄」や「桜田門の変」まで引き起こしてしまいました。
「安政の大獄」は、1858年(安政5年)に大老井伊直弼が断行して調印した日米修好通商条約と第14代将軍の継嗣の2つの事案に反対の立場を取った家斉の尊王攘夷派グループに対する弾圧事件です。
開国賛成派である直弼率いる南紀派が推した家茂が第14代将軍になった後、朝廷の許可なしに直弼が「日米修好通商条約」に断行して調印したことに激怒して江戸城の乗り込んだ斉昭でしたが、逆に直弼から謹慎処分を受け、政界引退に追い込まれてしまいました。
しかしながら、斉昭の開国反対の尊王攘夷思想を受け継いだ水戸藩の志位達は、朝廷も斉昭と同じ攘夷の考えであることから朝廷から幕政改革を命じる勅命を下してもらうために動きました。
その後、朝廷が「戌午の密勅」を下しましたが、直弼の逆鱗に触れて斉昭は水戸で死ぬまで謹慎する永蟄居を命じられ、直弼の開国派との対立に完敗してしまいました。これが「安政の大獄」です。
「桜田門の変」は、再度、斉昭の尊王攘夷思想を受け継いだ志士たちが立ち上がり、水戸の脱藩浪士たちが1860年の3月3日に、江戸城登城に向かう井伊直弼を討ち取った事件です。
この「桜田門の変」の後も斉昭の幕政復帰と永蟄居の命は解かれませんでした。斉昭は桜田門の変で直弼が亡くなった年と同じ年の8月15日に61歳で水戸城にてなくなりました。
現在の茨城県水戸市内にある千波公園内には、斉昭と七郎麿(最後の将軍である第15代将軍・徳川慶喜)親子の像があります。
水戸藩主の3男として生まれながら藩主になることができた斉昭は炎のように烈しい生涯をいきぬきました。
この親子像が物語っているように息子と過ごしたこの時期が斉昭の生涯の中では、慶喜の父親として過ごせた一番良い時代ではなかったでしょうか。
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