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徳川慶喜は1837年に茨城県で生まれました。父は水戸藩主の徳川斉昭で、徳川慶喜は幼い頃から水戸の藩校にて徹底した教育を受けていきます。そして10歳になる頃には、徳川将軍家に跡継ぎを入れる資格をもつ家系で、当時13代目徳川家定の跡継ぎを探していた、一橋家の養子となりました。
その後数年間は跡継ぎ問題に翻弄され、一時は謹慎処分とされる事態にも陥っています。しかし、原因となった井伊直弼や14代目徳川家茂が若くして亡くなったことから、1866年、15代将軍に就任。就任後はフランスより軍事顧問官を招くなど、軍事および政治の双方の面で欧州文化を取り入れていきました。改革を進めていく中では、薩摩藩と長州藩からの反発に苦戦。やがて1867年に大政奉還を行い、自身の将軍としての立場を朝廷に返却した事で、徳川幕府は幕を閉じました。
戊辰戦争をはじめとする幕末の混乱後、徳川慶喜は政治に積極的に関わる姿勢は見せず、渋沢栄一をはじめとした一部以外の旧幕臣とは顔を合わせない生活を送ったと言われています。静岡にて、長らく写真や謡曲などの趣味を楽しみながら過ごし、60代の頃に東京に移住。爵位を得ることとなり、約10年の間は貴族院議員として務めましたが、1910年には隠居生活を開始しました。
晩年は再び趣味に打ち込み、1913年、77歳で息を引き取っています。
徳川慶喜はこのように、当初は14代目将軍となる事を期待されたものの、徳川家茂との争いに負け、一時は徳川家茂をサポートする側に回りました。そして最終的には、15代目として将軍に就任しています。
並びに、外国文化を取り入れながら改革を進め、日本の徳川幕府を終わらせる事となった点に大きな特徴があるといえるでしょう。
13代将軍の徳川家定は身体が弱かった事から将軍として不安に見られており、当時評判の高かった徳川慶喜が、次期将軍候補となっていました。
また、兵庫港開港の条約を結んだ際には、その行動に異を唱える者たちを論破し、場を制した事から「家康の再来」と言う評判も獲得しています。
一方で大政奉還や戊辰戦争ののち、存命中に将軍職を退いた数少ない人物ともなった徳川慶喜でしたが、囲碁や写真、油絵なども楽しむ悠々自適な生活を送り、これらの趣味各種に優れ、極めていたとも言われています。
関連書
徳川慶喜自身が書いた『徳川興山公一行書』を早稲田大学図書館が所蔵。
同じく自身で描いた『西洋風景』を久能山東照宮博物館が所蔵しています。
また、渋沢栄一が編纂した徳川慶喜の自伝『昔夢会筆記』なども知られています。
■井伊直弼
1815年に生まれ幕末時代には彦根藩主として活躍。大老ともなっていますが強制的に日米修好通商条約を結んだ事などで、暗殺されています。
このように低い評価がありますが、一方では開国を推し進めた点に高い評判があります。
■渋沢栄一
1840年に生まれ、徳川慶喜に仕えました。仕官中には欧米諸国の文化に触れ、明治期になると大蔵省へ仕官。富岡製糸場の設立や、生涯を通して数百に及ぶ企業の創設、公的機関の支援に携わったことから、近代日本経済の父と称されています。
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