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川上冬崖(かわかみとうがい)は1827年に長野県で生まれました。幼い頃は藩校に通い、18歳頃になると上京。上京してすぐの頃は上野の寛永寺に身を置いていましたが、ここに出入りしていた絵師・大西椿年と知り合い、四条派の絵を学ぶ内に、画家を志していったと言われています。
その後1851年には御家人の川上仙之助の養子となって幕府に仕え、洋学の教育機関に出仕するようになりました。約2年後には、オランダ人教師から蘭学や航海術を学ばせ海軍士官を育成していた、長崎の海軍伝習所を訪れ、測量術などのほか石版画の模写や遠近法なども研究。また川上冬崖が30代中ばの頃には画学局が設立され、同局の筆頭として、高橋由一らと勤めたと共に、当時の徳川将軍・家茂に伴われ、製図や撮影など技術者としても活躍していきます。
やがて1869年、自宅の敷地内で画塾を開校。“聴香読画館”と称して、川村清雄や小山正太郎などをはじめとするのちの画家たちに指導を行いました。そのほか、銅版画や石版技術に注目し、銅版画で書物の挿絵を制作したり、西洋画法についての著書を出版するなど、当時における西洋画の第一人者の1人となっています。
一方で画家としても、明治天皇に油彩画を献上するなどその名を広め、また日本画や南画も多く描くなど多方面に才能を発揮。50代前後のころには陸軍の兵学寮や地図課に勤め、またその豊富な知識から内国勧業博覧会の審査主任もこなしました。
しかし1881年、2回目の博覧会審査員を務めたのち、自ら命を絶っています。
川上冬崖は洋画家や南画家としても活動していますが、製図法の第一人者でもあり前述の通り洋画について深く知り、それを後進にそれを伝えた部分が、活動の中でも非常に大きな功績であるといえます。
川上冬崖のおかげで、幕末から明治時代序盤にて日本で洋画が大きく広まったとも言われているのです。
川上冬崖の作品について、実際のところ、油彩画はそれほど多く残されていないと言われています。
一方で、幼い頃には円山四条派の大西椿年にもついていたことからか、日本画や文人画が多く発見されています。
代表作
1874年発表の習画帳の『写景法範』や1879年に藤堂凌雲との合作である文人画作品『花卉図』(三重県立美術館が所蔵)。
『川上冬崖蝦蟇図』(早稲田大学図書館が所蔵)などがあります。
■高橋由一(たかはしゆいち)
1828生まれの洋画家で、元々は佐野藩士の子供です。身体が丈夫でなかった事から武士としての修行の代わりに絵について努力を重ねていくようになります。
イタリア人画家のアントニオ・フォンタネージから学んだ事も契機となり、立体感のある、当時としては今までにない緻密な描写の西洋画を描く事に成功しました。
■内国勧業博覧会
1877年に殖産興業の為に始まり1902年の第5回まで続きました。
従来の催し物よりも海外の技術を伝える意味合いが強く、また国内技術への取り込み方も見て取れる内容となっています。
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